巣/人生の意味/植毛

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球と棒、宮と塔、世界の中心と世界の果てについて《ナラティブ》

球は言葉としては『定点Cから等距離 r にある空間内の点全体の集合』のように表される。それは角ばっておらず、滑らかである。最も重要なのは等しさ、偏りのなさであり、完全な球体はネットミームとして有名だ。球技というものは球を高速でやり取りするものだが、やはり空間、空気との接触の公平性や衝突時の負担という面で球の形は優れているのだろう。ラグビー程度のアレンジならともかく、バトミントンなどのレベルにまで球性を失わされた競技は球によって行われる球技と全く異なった競技性のもとに成り立っているのではないか。もちろん放言である。詳しいことは知らない。

 

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対して棒は凶器としての用例が目に付く。正論棒で殴るという表現が乱暴な印象を与えるのは、棒が粗野かつ恐ろしいという性質を内包しているからこそであろう。現代人に馴染みの深い野蛮人、暴力的な極左はゲバルト棒という武器を用いたが、最も手ごろで強力なゲバ棒は角材だったそうだ。反撃を許さないリーチから重力にまかせて振り下ろされる角材。刃物ではないから、資材屋なりホームセンターで簡単に購入できるのもミソだったとか。

球と棒が対面したならば、球は棒によって殴打されなくてはならない。例えば野球のボールとバットのように。あるいは棒が球に挿入されなくてはならない。団子に櫛が刺し込まれるように。

 

宮という建物についてイメージすると、それは高さを特徴としたものではない場合が多いのではないだろうかと思う。低くて横に大きい建物で、特徴的なのは広々とした中庭だ。それは敵対的ではなく、安心を与えることが念頭に置かれている、塔が果たすべき機能のまるで対極のように。

典型的な塔とは物見櫓で、それはまさに戦闘を目的とした仮組みの建造物である。高くから遠くまで見通せることは戦いにあたって非常に役に立つ。戦闘行為とは全く人間らしい活動で、戦闘に役立つものがまさか無意味だということはあり得まい。高所に陣取ることで、位置エネルギーを味方につけることもできる。相手の攻撃は重力が阻み、こちらからは矢や投擲で甚大な被害を与えることができる。

町の塔はどうだろう。もちろん、現代となってはビルディングが至る所に建っていて、高い建物への特別な感慨は大きく変容しているかもしれない。もっと呪術的だった時代の塔を考えるにあたっておあつらえ向きの題材はタロットカードの塔である。wikipediaから引用しよう。wikipediaのタロットのページは割と全ての絵柄が面白い。

 

 

テーマは「破綻」。

正位置の意味

破壊、破滅、崩壊、災害、悲劇、悲惨、惨事、惨劇、凄惨、戦意喪失、記憶喪失、被害妄想、トラウマ、踏んだり蹴ったり、自己破壊、洗脳、メンタルの破綻、風前の灯、意識過剰、過剰な反応、アンチテーゼ、自傷行為

逆位置の意味

緊迫、突然のアクシデント、必要悪、誤解、不幸、無念、屈辱、天変地異。

 

正位置・逆位置のいずれにおいても凶とされている唯一のカードであるが、解釈によっては、解放、改革、殻破りなど、逆位置が良いとされる場合もある。アーサー・エドワード・ウェイトタロット図解における解説では「悲嘆・災難・不名誉・転落」を意味するとされる。

ja.wikipedia.org

 

イメージとして、中世風な物語の村や町にある教会の鐘付きの塔は『町のシンボル』のような役目を担わされている。だからこそ記念碑でもある塔が天災、嵐や雷によって崩壊する様は不吉なものを感じさせるし、教会などの神の場所を謳ったものであればなおさらであろう。

倒壊する塔の神話として『バベルの塔』を知らない者はいないだろう。世界塔の建設。それは人間の英知を証明するというだけのものではなく、むしろそれ以上に、傲慢や神への侮りを形にしたものだった。それは新しい世界の中心であり、神は怒りによってそれに報いた。アジア地域でもやはり雷は神の力を象徴するものであり、賢しい人力で建てられる塔などよりも遥かな天空から振り下ろされる力・権威なのである。権能と言ってもいい。

 

ミルチャ・エリアーデという宗教学者は、世界の中心という概念に注目している。それは世界樹や世界柱、世界峰のような『頂点が見えないほど高くそびえるもの』とされる。それが世界の中心であるのは、ただ巨大であるからではない。そこから世界が始まったのだと民話や神話によって信じられているのだ。エリアーデは起源神話を重要視する。世界の源泉であるもの、あるいはそれを模したものの(物理的、あるいは由来的、神話的な意味で)近くに身を置くことで彼らは自らもまた偉大で巨大なものに存在として近づくかのように感じる。事実として『世界の中心』は今ここの段階で存在しないが、それは失われてしまったためだ。偉大なる神、造物主、いつも目にかけてくれる超越者はどこか遠くに去って、あるいは隠れてしまった。(それは私たち側の裏切りや怠慢が原因なのだ、)だから私たちは、かつてあった意味を回復しなければならない。偉大なものを、記憶の中だけでも思い出し、あるいは次の世代へと引き継がなければならない。それが神事や祭事といった、儀式が持っていた「意味」なのだと彼の宗教学は指摘する。

世界の中心の、おそらく対極になるべき存在として世界の果てという言葉がある。この言葉もまた過去の言葉に過ぎない。地球が球体であることが広く知られている、または電子通信によって情報的距離が短縮され、部屋に居ながらでも世界中のリアルタイムニュースが手に入る現代では、観念的なある種の情景である(オケアノスの果て)。

逆説的に現代人にとって身近になった世界の果ては、オープンワールドゲームのステージの端だ。媒体の持つ限界として存在するステージの端は、古典的な境界と格段に離れるわけでもなく、ベタな表現で濁されている。例えば海や川、切り立った崖、そびえる外壁や山岳、はてのない砂漠や氷原、暗闇。縦方向にも、見えない壁、存在しなくなる上昇または下降の感覚が表現される場合もある。

創作物と視聴者の間、原義的には演劇と観客の間を仕分ける境界は第四の壁という単語で表されるが、それもまた一つの限界、世界と世界の境目である。これを推し進めた「世界の果て」が『少女革命ウテナ』に登場し、世界の果てを名乗る鳳暁夫であるように思う。彼は物語の黒幕で、かつてはその純真さと英雄的な奉仕活動によって世界中の女の子を救う王子様だったのだが、その力を失い「世界の果て」へと成り果てる。「世界の果て」はあらゆる尊いもの、『永遠』『輝くもの』『奇跡の力』をただ自分の目的に利用するエゴイストである。鳳学園という箱庭を支配し、物語の主人公、世界の中心である天上ウテナをも手玉に取る。このような悪の権化ではあるが、おそらく本人にその様な自覚はない。彼の自覚する自分像は現実主義者であり、その振る舞いは自然の摂理、甘言に惑わされる子供の弱さを糾弾する。英雄神話や騎士道物語に憧れ、体現して生きようとする主人公たちに「俺も昔はそうだった」「だが、現実を見ろ。この場所でうまく立ち回るべきなんだ」と諭す彼は、かつて或いは今の自分に言い聞かせるかのようでもある。

しかし、世界を抱擁するかに見える彼は、閉じた狭い世界の中で権威を傘にする塔的存在に過ぎない。学園の最も高い塔・展望台・理事長室に住まい、学園の人々を従え利用する。しかし、彼はより大きな舞台の上、圧倒的権力者として振る舞えない場所に立つことは諦めているのだ。世界を包むかのように見えてその実、見つかって取り上げられることを恐れて秘密の場所を覆い隠していたのだ。

中盤頃に登場し、感じのいい人物として存在を発揮する彼は、星やプラネタリウムを見上げ、星座や星についてのトリビアを語る。終盤、黒幕としての素性を見せ始めつつある時期に、個人的に好きなセリフがある。

「本当のことを言おうか。星になんて、全然興味ないんだ」

 子供よりシンジゲートを作ろうよ 壁に向かって手を挙げなさい

穂村弘『シンジゲート』