巣/人生の意味/植毛

ソシャゲ、漫画、web小説、短歌/サブカル色々/男、専学、誕生年1994/利己翔とも/ツイッター https://twitter.com/kakeruuriko?lang=ja

俺と音楽の話

 やや時系列順。音楽に限定して書こうとするのも諦めたので、『音楽を起点に連想される、俺のろくでもない思い出話またはくだらない意見』とでも言うような内容。貧乏性なので書いた物は載せる。

 

 

 

 

 教会の讃美歌が大嫌いだった。讃美歌というのは大体賛美、忍耐、勝利、栄光みたいなテーマで、その辺りのテーマについて同じような歌詞が大量に並んだ、ちょっとしたもう一つの聖書みたいなのを抱えながら、礼拝をやっていて、日曜礼拝で始めと終わりと中頃で何度かあるタイミングで歌ったりするわけである。子どもの頃は宗教は思想や理想的な生き方を示すなどを目的としていると思っていたので、大声で騒ぐ歌というのが本当に嫌という気持ちを持っていた。

 今では在家信者に対して神学的・哲学的な意味で人生の意味を示したり、勇気づけることは全く不要であり有害なことも多いという考えに傾いている。伝統的にカトリックでは讃美歌を翻訳せずに歌って、つまり在家には謎の羅列でしかなかったのが宗教改革で改められたという。それを知ったときは宗教に民衆を導く使命があると思ったので有意義なことだと思った。今はそれは全く聖性を剥奪する不当な処置で、これだから宗教改革はという気持ちになる。プロテスタントよりカトリックを好ましく思うと以前コメントしたのはこのような理由だ。

 幼稚園頃にピアノ教室に通い、小学校3~6年で金管部でコルネットを吹いたのが音楽経験だが、楽譜の読み方を分かったことはさっぱりなかった。楽譜から、リズムとか拍子が分からないので、一度録音なりを聞かないと前に進めない。惨めなことではあった。

 金管部に入ったのは友達に誘われたからだった。小学校の頃は友達がいて、クラス三十人全員のフルネームを把握することが出来ていた。彼がなぜ金管部に入りたいと思ったのか聞いたことがなかったことに気がついた。好きな女の子がいたのかもしれない。当時の学校では金管部に男子が入るかに謎の時流が存在していて、4~6年に男子がいない状態が発生していたが、女子は毎年それなりに確保されていた。

 小学校の頃に意識していた女の子がいて、きっかけが彼(・)がその子を意識しているという噂を耳にしたことがだった。それを聞いた上で観察しても、全くそのような気配は感じられず全く根も葉もない話という根拠が強まるばかりなのだが、それはそれとして俺は意識するようになって止められなかった。俺は小学校の頃、本当に自我が無かった。彼(・)が冗談に、俺へ用水路に飛び込めと言って、それは本当に何気ない冗談で強制でもいじめでも全くないのに、「ここで従ってみるとちょっと面白いかもしれない」という好奇心が働いて実際に飛び込んでしまうと、彼はつまらない冗談を言うなとか強制するなとかで怒られてて、気の毒になった。

 弟も金管部に入って、三年違いなので同時に金管部に在籍することはなかった。俺が三年のときはカス打楽器華やかし役に三年にも募集をかけていたのだが、先生の転勤で方針が変わり、四年入部ほぼ管楽器になったのだ。弟は四年ではコルネットをやっていたが、肺活量が立派だったらしくホルンやユーフォへ出世した。中学校頃までは弟の学校での成績は振るわないところがあり、運動面も共に碌なものではなかったから、俺がカインコンプレックスを意識したのについて、コミュニケーションに次ぐポイントだったのではないかと思う。今ではアレはよく筋トレするし、TOEIC高いし、俺が勝っている部分の方がずっと少ない気がする。観光地で法螺貝を吹かせてもらったら俺はやる気がない音がして弟は普通の音がしたのは大学に行く前の頃。父親は法螺貝の音の仕組みも理解していなかった。

 弟と、弟の友達とカラオケに行ったことがある。父親は俺が同年代の人間とコミュニケーションをとらないことを気にして、無理矢理にそうさせたのだった。俺はそこで勝手にコミュニケーションしようとしたが、弟の友達は嫌だったらしく、カラオケの終了時間よりも早く切り上げたし、俺は楽しくやっていたのに弟も弟の友達にも気を遣わせるよくなかったことであったと言われたので、人間とコミュニケーションすることについてのやる気をそがれる出来事として記憶に残っている。

 いくらか時が前後して。音楽の授業は適当に合わせていた。喋ることは得意ではなかったが、大きい声を出すことは嫌いではなかったし、歌う技能についてよく理解してなかったので地声の延長の張り上げ声でテストなども乗り切っていた。音楽教師に「利己くんはテストでは声を出すけど、会話等ができなくて苦労しそうな人間ですね」と言われたこともある。急にそう言われて押し黙っており、機嫌を悪くしたように思われたのかもしれないが当時は正直に思ったことを話す先生に尊敬していた。その通りだとも思った。教師を恨むことが得意ではない気がする。

 高校辺りの時分からウォークマンを持つようになったが、音楽よりもDlsiteでダウンロードしたエロ同人の試聴音声を聞くことの方がずっと多かった。当時、インターネットへアクセスする手段はリビングの共用パソコンの他にDSがあったが、音や動画をPCと同じように観られるのか不安で、ウォークマンが活躍することになった。

 音楽としてよく聞いたのにはジブリ主題歌アルバムと仮面ライダーアルバム、ポルノグラフティなどがあった。振り返ると、仮面ライダーでロック調への親しみが蓄積されていたように思う。ポルノグラフティ以外にも弟がお節介に入れてくれた曲はいくらかあった気がするが、アゲハ蝶やカルマの坂といったストーリー仕立てのポルノ曲を聞くばっかりだった。

 塾で便所飯やってたら気がつかれ、知らない人に捕まりかけるところだったので仮面ライダー聞いて耐えたということは記憶に残っている。耐という字を使いたくなる程度には辛かったらしい。

 半オタクだったので創聖のアクエリオン残酷な天使のテーゼは聞いていた。どちらもアニメ本編については今に至っても未見。その頃はインターネットで音楽を探す気になれなかった。音楽について見識を深めようとすること自体に拒否感があって、今でも残っている分よりずっと強かったので、YouTubeニコニコ動画をそれ自体の次元として嫌っていた。VIPまとめややる夫スレまとめが主な見物場所となった結果、ネット右翼アイデンティティを獲得したこともあった。

 大一の時期は特にネット右翼としてあったので、進学でもらったスマホで普通の日本人の政治系ブログ通いを日課としていた。ポケモンやフリゲを自由時間に充てていたが、ゲームを音付きでしない主義だったし、一番音楽を聴かなかった時期っぽい気がする。一人暮らしするようになったらテレビも付けなくなった。大二からTwitterを始める。

 バイトを入れまくって成績を破滅させ、大学を辞めたくなったりしつつウォークマンを弄っているときに弟が勝手に入れた歌い手の音楽に気がついて作業しながら聞いて、東京テディベアを大いに気に入った。繰り返しの設定にして散歩して、ループしまくっているうちにネット右翼からメンヘラに転向していた。音楽で転向するエピソードがあるとだけいうとかっこいいけど最悪から最悪なので最悪。

 ロック調の音楽と自己暴力的な歌詞が良かったんだろうと思う。仮面ライダー主題歌シリーズは根底が超健全ヒロイズムという所があり、その逆だったので。

    つまり、男なら泣くなとか、女のメンヘラはともかく男のメンヘラはアウトという話題だ。めちゃめちゃ影響されていたので男でメンヘラをやってはいけない気がしてネット右翼マッチョイズムに接続されていたのを解呪するきっかけでもあった、今から思い返すとそのように分析される。Neruさんが男でよかったという気持ちはかなりあるし、今ならともかく当時に女性の自傷的破滅創作を受け入れられた自信はない。俺は創作を見るときに創作者の性別を露骨すぎるほど気にするし、オカルトだと馬鹿にしながらもフロイト流メタファーを当てはめもする。

 また、この辺りの時期にユリ熊嵐少女革命ウテナのルートを通り大幅に人間性を獲得しつつウテナ決闘曲を気に入った。ジェンダー感覚揺さぶられっぱなしか?なので、この時期はNeru氏の世界征服かウテナ決闘曲しか聞いてなかった。ウテナ決闘曲はロックと荘厳に無意味を掛け合わせたような曲、という風に捉えることにしているが、マダラカルトあたりの初音ミク曲に求めていたものをプロが10年以上前にアニメで完成させているっぽい事実が怖すぎた。とにかく僻みに僻んでいたので今更俺程度が衝撃を受けているのなら既に全人類とっくに既知であってやっと衝撃を受けている俺はめっちゃ恥ずかしいという気負いが音楽だと殊更に強く発動していて、この共感性羞恥は今でも持て余している。

 また、神聖かまってちゃんとかデスヴォイス風が普通に嫌なことについて、俺にセンスがないんだろうなという僻みが発生する。作品ではなくインタビューとか読むと真っ当な話をしているのでセンス説への根拠が増す。これは音楽だけではなく全媒体の片足シュールやら現代やらにつっこんだ系にまま思うことがあるが、趣味なので割り切るだけのことだ。

 音楽とボカロについて、ものすごく何も分かっていないのではないかとよく思う。日本語の歌詞のある音楽については、歌詞以外の要素は詩である歌詞の意味をより正確に伝えるための添え物のように捉えようとすることが性分(癖の方が適切だろうか?そういうやつについて、適切な語彙が浮かべられていない)で、だとすれば声質というものは楽器が弦楽器か管楽器か打楽器か的な問題の延長で、作者の気持ち問題程度にしか読解の余地が残されていないのではないか。自分は、どんな形式の創作でも作者の気持ちから遡ることを原点、解釈の基礎のように重んじる主義だ。これは、複数人で始めて完成する形式の創作に対して適用することが難しく、つまりメジャー形式、作詞家作曲家歌手演奏家音響エトセトラで構成される音楽はこれを拒否している故に正道の創作としての在り方を拒否している…に対してボカロPはワンマンで投稿まで持って行ってて作者の気持ちを考える余地が残されて、正しく読解できる気がする様な気がしていた。

 けど最近、一人でカラオケに行くようになって、カラオケで聞いていた歌を歌おうとすると全く歌えていなかったり、文字をよく噛むと思っていたのと全然違う味だったりして自分がどうやって音楽を解釈しているのかちゃんと分かっていないのだと改めて思った。

 初音ミクの音楽も最近はそれなりに聞いていて、「ボカロの無機質性がいい」については「確かに」と思うこともある。「ボカロらしく歌わせている人と人間のようにボカロを歌わせている人がいる」というのも少し分かる。課題は初音ミク鏡音リンレンの違いのことを自分で言語化して表わせないことだ。初音ミクに向けた憎悪がジャンルや属性に向けた憎悪でしかなかったのか等、初音ミクの音楽に対してのスタンスはおぼろげで一貫していない所がある。