巣/人生の意味/植毛

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「NEEDY GIRL OVERDOSE」への期待と死生観について

 自殺に関する自分の考えをメモしたくなった。にゃるらさんのゲームのプロモーションを見たからだ。一度延期されていたゲームだ。自己肯定感が低く承認欲求のつよい、きれいな女の子がネット配信などをやり、病んだりするゲームらしい。彼女の夢主となって彼女の行動を指示したり、えっちなことをしたりするうちに、自殺などのエンディングを体験することができるそうだ。楽しそうなゲームであると同時に、自分の自殺に関する考えや経験について想起させられ、ナラティブな気持ちになったので一つ文章を置いておきたい。 

 

 身近な人間で一番早くに死んだ人として、父方の祖母があげられる。私が中学一年生で、夏休みの入ったばかりのころに亡くなった。同居していたが、私が物心のついたころにはかなり呆けていて、あまり意味のある交流が発生する相手ではなかった。人間はいつかこの様にして終っていくのだろうなということを意識させられた。父や母は祖母の食事の面倒を見るなどの介護を億劫がって日中のほとんどの時間を老人ホームで過ごしていたし、家族旅行の際には祖母はそこへ預けられたから、家族というより面倒を見ている人だという感覚があった。私としても人格を尊重するような相手だと認識できず、かわいそうかもという同情とそういう扱いになるしかないだろうという諦観があった。最期の数年は病院に入院したきりで、ずっと終末期医療を受けていた。たびたび面会に行ったが、率直に面倒だという思いしかなかった。 

 そういう面会のある時に、祖母の枯れ木のようになった腕を父が手に取り、触ってみろと言ってきた。気持ち悪かったので気持ち悪いからいや、というと、父は強く私を怒鳴り、そんなことを言うなと叱った。私は叱られるのが嫌いなのですっかり委縮して、それで祖母の腕をさすることになったわけである。父にも親に情があるんだなあとか、けど気持ち悪いから触りたくないと思うの、普通じゃんという納得のいかなさの二つの感情を覚えた。それが祖母に関する、最も印象的な記憶だ。 

 そういう祖母が死んで、私は死にそうな人がやっと死んだんだなあと思った。事前に想定していた通りの、冷たい無関心。もう面会に時間を費やさないことへ、微かな安堵感すらある。葬儀は仏教式だった。父はクリスチャンだが、改宗の一世代目のクチで、他の父の兄弟(3人の姉妹、私から見た叔母)は仏教徒。昔の人間なりの真面目さでその信心を持っていた。祖母自身もそうだったと思う、私の生まれたときには、もう死んでいた祖父の仏壇が、祖母の部屋にはあったから。私はキリスト教以外の宗教儀式は総じて邪悪という宗教教育を教会で受けていて、まあそれらも教会で言われている分リップサービスというか口が乗っている部分もあって、そんなに極端なもんでもないだろうとうわべの理解はしていたが、それでも初めて参加する仏教の宗教儀式はなんだか七面倒だったし、郷に入っては郷に従えという諺に納得いかない気分になった。 

 葬式では結構いろいろな人が悲しんでいた。当時に今の私くらいの年齢だった、全然よく知らない従姉が涙ぐんでいて、呆ける前はあの祖母も人に思い出を作れたらしいことを実感した。 

 

 

 私の死生観を形作った、決定的な出来事の一つだ。他に重要な要素をあげるなら、その頃の私の生活や趣味があげられるだろう。中学に上がった私は友達を作れず、学校生活で浮いた存在だった気がする。私は日々の生活を本当に退屈で不必要なものだと感じていて、死と終わりを希求していた。 

 そういった時期に好んでいた娯楽。パソコンは一家に一台、リビングルームにだけ置いてあり、好き勝手にインターネットする時間は限られていた。友達がいなかったこともあって、最新のコンテンツから選択する必要性は低かった。最も親しんでいた娯楽は海外ファンタジー児童小説、具体的には『ハリー・ポッター』『デモナータ』(『ダレン・シャン』の次作)『バーティミアス』。同ジャンルの別タイトルを読んでいくという発想をあまり持てなかったので、それらの内からその時の気分で読破済みのタイトルを周回するように読んでいた。よいシーンを何度も反芻することや、読み込む中で伏線になっていた部分を新たに発見するのは十分に刺激的なことだった。ハリーポッターデモナータは当時は進行形のコンテンツで、私が中三の頃に完結したようだ。その頃に他のインターネットへ興味がそれ始めたので、ウチのハリー・ポッターは七巻だけ損傷の程度が低い。デモナータは途中の八巻までしかウチにないが、数年後図書館で最後まで読んだ。 

 

 

 それらの本の中、『デモナータ』の第三巻に、自分の死生観の礎になるようなセリフがあった。もしくは、既に自分の持っていた感覚が、ぴたりと言語化されたものだったのかもしれない。『人生は、おとぎ話とは違う。人生の物語には、続きがある』。第一巻で非常な困難を乗り越えた、主人公の内心だ。第一巻では、主人公の叔父が魔界での試練を乗り越えて魂が帰還する。(マルチ主人公もので、二巻は彼の物語ではない)そして第三巻冒頭、期待の通りに日常が回復することはなく、魔界で与えられた苦痛のためにノイローゼで発狂する叔父の介護生活への苦痛が描かれているのである。その描写に感銘を受けて、死と物語の終わりこそ、苦痛に満ちた人生がやがてたどり着くエンディングであるという理解を強く内面化するようになった気がする。 

 

「わかるかいアズーリア。この世界槍こそが世界を『普遍ゼオーティア』で完結させるんだよ。永遠の最果て、『幸福ハッピーエンド』に至るために」

 

幻想再帰のアリュージョニスト

転章『それは素朴で純粋な当たり前の』(196話)

 

 いつしか自殺に強く興味をひかれるようになった。『自殺論』『自殺の思想』『自死の日本史』『自死文学史』『完全自殺マニュアル』。フィクションでいえば、『火の鳥 復活編』も最も好きな漫画の一つだ。人からロボットとなり、集団自殺するロボットの物語。 

 

 

 インターネットでは、人はあまりにも軽々しく自殺や殺意を表現する。私はその風潮が好きだ。人の命に大した価値なんてないし、人口過剰は未来にわたって永久に課題であり続けるだろう。私の知らない人間なんて、面白おかしく死にまくればいいとしか思えないとしか思えない自分の倫理観の欠如を嫌悪しているし、死を正当化する大義や巨大な支配システム、それらを浸透させ実行させる権力や思想統制にも惹かれるところが大きい。

 

axetemple12.hatenablog.com

 

 

 私の精神薄弱者へ対する思いには愛憎入り混じったものがある。また、憎については鬱々としていた時期の自分への嫌悪という面が大きい。ゲームとはいえ、健康に反した振る舞いをキャラクターにロールさせることに過大すぎる関心を持っているため、にゃるらさんのゲームをプレイするのかどうか自分でも戸惑っているところがあるらしい。