巣/人生の意味/植毛

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手紙魔まみ感想199・200

「50000㎞達成。ここで乾杯」(神様、まみを、終わらせて)パチン

 

 会話で触れられているのは車のことと思われる。車は男性性の象徴という話があり、どれだけの道のりを進んだということが征服の要素を醸し出す。車に乗りながら乾杯つまり飲酒してはいけないことをするのも調子に乗っているんだなあというのがあって、調子に乗らせている自分のつらみが『終わらせて』の苦しみへ繋がっているという歌なのだろう。

 

『車』『征服』

 

 

 

 

(あなたはまみにどんな酷いことをしてもいい)睫毛と息と空が凍って

 

 まみが無力で支配された存在であることを意識させられている。『睫毛』は視界、『息』は呼吸、『空』は世界と取り巻く環境全てが冷たく固体的に感じられ、見るのもつらく、息苦しく、存在すること自体がつらいという状況で、自分のことも『あなた』に支配されて身動きが取れない。消えることは当然許されない残酷な世界でやっていかないといけないということに思われる。

 

『苦しみ』『被支配』

手紙魔まみ感想197・198

「この道はまみのためにつくられたんだ」(神様、まみを、終わらせて)パチン

 

 自殺願望がテーマになると、服地テーマとして周囲の反応というものが現れてくる。そうした場合、家族、親というのは比重がデカい。昔から知っていて、人生の大部分が子である自分へ投資されていて、それが自分から死ぬことに一番納得しないだろう存在だからだろう。親に死にたいというと、「われわれがお前のためにどれだけ~」という内容の説教を食らうに違いない。『まみのために』もそういうニュアンスの元にある。また、親の敷いたレールを沿って人生を行くという、人生と道の比喩のこともあるのだろう、自殺は明らかに親が用意していない道である。親に用意された道を行くことへの抵抗が自殺願望として現れるということもあるだろう。

 

「親」「従い」「自死

 

 

 

「ウサギにも男の遊びを教えよう」(神様、まみを、終わらせて)パチン

 

 『男の遊び』というとセックスの系統にあるナンカなのだろうというところ。『まみ』は明確に女なので異性間のまなざし論とかが絡まった感情が提出されるものと思われる。戯れにセックスに関わらされる気持ち、ウサギがセックスを象徴することがここにきて色合い濃くされるし、『教えよう』が立場の上のものからの情けという表れで、対等ではないセックス、つまり性的搾取……。

 要するに僕の感想は本当に言語化が難しいということ、僕は男なので女目線の短歌を作中主体から見ようとする方法ではまったくうまくいかないということ、手に余るのでぼかしぼかしにしておきますということです。

 

「セックス」「性的搾取」「まなざし」

手紙魔まみ感想195・196

神様、いま、パチンて、まみを終わらせて(ウサギの黒目に映っています)

 

 パチンは瞬きのことも含んでいるのかもしれない。『(会話文)(神様、まみを、終わらせて)パチン』という下の句に統一された歌がこの後4つ続く。繰り返しで迫力が出るという技法の総決算かという勢いがある。単純で、異常に簡単でも難しくもない語で、かつはっきりと死を願う様子が繰り返される。

 その前置きの意味があり、オリジナルとしての力が存在する。対比要素として地の文の描写のように客観的に風景を表した下の句が置かれている。『終わらせて』の願いは徹底的に主観要素であり、視点を集中させすぎない様にしているのだろう。このような視点のことを『神の視点』と言うこともかけられているのかも。

 

「視点」「気持ち」

 

 

「思った通りだ。すごくよく似合う」(神様、まみを、終わらせて)パチン

 

 会話文は、『まみ』を眺めての感想のように思える。服でも着せてやって、親が納得しているのだろう。まみに関することだが、まみに向けられた言葉ではないという歪さの引っ掛かりがあって、死にたみとダブりが発生しているのではないかと思う。嫌な記憶のフラッシュバック、繰り返しのことである。

 ペットと子供の類似が暗示されている気もするが、後のこのシリーズの短歌が引っ張っているのかもしれない。続く。

 

「記憶」「他者」

資格スクールへ通えということ

朝起きると父がまだ起きていなかった。だから家で焼いている食パンを切ることが出来ないで、食べることが出来なかった。起きてくるとやや不均等にパンを切られ、それを僕は食べた。僕は食事中にしかリビングにおらず、その時間帯だけテレビを見る。NHKの朝ドラは、話はともかく節々に現れるポリティカル・コレクトな思想教育が目に付き、イライラさせられる。その後のアサイチでは、禅の特集をしていて、瞑想の内でも苦痛をかなり用いた手法で、ためらいの気持ちを発生させてくれる。

掃除の話になると飽きが来たため、犬の散歩へ行った。躾けたわけでもないのにトイレを外でのみ行う、利口な犬で面倒が省けていた。帰って少しぼんやりした後、おもむろにコンピュータ・ゲームを始めた。Civ4とHSをほどほどに楽しむ。それらばかりやっているので、どちらばかりでは好奇心がマヒしてきて楽しみこむことが出来ないのだ。

昼はやや豪華なカツサンドとパンだった。父はインスタントのコーヒーを淹れる際に牛乳を温めるように要求した。テレビはベルギーのテロと脱走したシマウマについて紹介している。

塾に行って、恐ろしいスケジュールで授業を受けたら脱落者ではなくなって挽回可能であるということで励まされた。餓死のことが話題になった時に私は最もイキイキとして説明者との会話を弾ませた。誰でもできることをさせられるようになるために金を喜んで払ったり払い戻させられたりして、なんでそんなことでニコニコしているんだろうと馬鹿馬鹿しく思うが、私が馬鹿なので塾に通うことになりそうだ。父も母も、塾に通うことは望ましいと言った。

菓子メーカーハレルヤに向かい、イチゴフェアで安くなる特別のケーキを買ってから帰った。母が求めているのはミルフィーユだったが、売切れていたのでイチゴモンブランジャポニカを家族分買った。「昔このケーキ屋にはよく来ていて向こうには鯉がいた」と説明していた場所は高級結婚式場になり、立ち入ると警告音がした。

シマウマは死んでしまったとツイッターの人が言っていて、今日は文学的な一日だと思って疲れた。

帰るとベッドで寝て、父に叱られ、「病気に責任転嫁するなクズ」という趣旨にもっていこうとするところをうまく先回り自虐でかわし、父親が自爆して物にあたっている様子を眺めていた。

手紙魔まみ感想193・194

アルトじゃなくてソプラノになりたかった、まみじゃなくてマルの恋人に

 

 アルトも女性の歌声の音帯を指し、ソプラノよりも低い。高い声の方が女性らしくて素敵だというイメージで、もっと魅力的でありたかったという願いについてである。定型から逸脱し、飾らない本音が噴出する様子になっている。『マル』も『マルの恋人』も初登場の気がするが、さぞ素敵な人なんだろう。「特に伏線が張られていない固有名詞を唐突に出すこと」は異様な具体性、リアル感という意味で「定型から逸脱した本音」と同じ効果を発揮する。

 

「本音」

 

 

「俺たちはまざるべきだ」壊れる、こわれるかわいい可愛い可愛可愛

 

 リフレインによる狂気の表現。繰り返しが不気味であることは、散々この歌集で散々取り組まれてきたテーマである。そのきっかけであるのは前歌と同じように唐突に表れる具体的存在である。男らしき者に『まざるべきだ』と言われる穏やかではない様子を受けて、『壊れる』が起こるのである。漢字とひらがなが入り混じるが、漢字が男文字、ひらがなが女文字であるという古典もあるのかもしれない。男と混ざり壊れて、ランダムにそれらの状態に入れ替わったりする。

 

「繰り返しの壊れ」

手紙魔まみ感想191・192

トランプ カジッタノオコッテナインデスネ? 熱のある人とおんなじ匂いのウサギ

 

 カタカナはウサギの視点だろう。音数も全く無視して具体的な出来事について触れている。作中主体だろう飼い主の気を推し量っておどおどしている。そのウサギを作中主体は『熱のある人とおんなじ匂いの』と表す。調子が悪そうに思っているのだろう。雰囲気のことを『匂い』で表しているところに焦点がありそうで、匂いと記憶は、実際的に関連性が強いので、思い出す気持ちの高まりがありそうだ。死に際の記憶なんだろう。

 

『雰囲気』

 

 

 

こんなの嫌、全ぶ嘘でしょう?こんなの嫌、全ぶ嘘でしょう?嫌

 

 定型からの逸脱は強い動揺を示唆するためだろう。『全ぶ』は『嘘』が感じの並びによって視覚的に効果が下がることを嫌ってのことだろうか。やや丁寧な話し言葉であることも動揺で、これまでの作品では一歩引いた余裕の視点から極端な口語体が利用されていたように思う。

 

『動揺』『否定』

手紙魔まみ感想189・190

ぼたん雪のなかでみつめるおとなしいおとなしい教習車の群れを

 

 意味の句切れが定型から外れている。また、『ぼたん雪のなかで』『おとなしいおとなしい教習車』『教習車の群れ』のあたりに意味の違和感もある。ありえない、過ぎた強調、ありえないという風に。『ぼたん雪』に始まり倒置法で終わらせるという風情が違和感をかき消しているように思える。一見しては静かで風情がありそうに見える。

 

「違和感」「雰囲気」

 

 

揚げイモをよろこぶ笑顔。メッセンジャー、伝えて、まみは、魂を、売る

 

 前半ではクソさもしい日常から刺激を見出し、無理にでも前向きになろうという気概。後半ではそういう生き方に疲れて、途切れ途切れになりながらこの感情を切り売りしながら生きながらえる様子を『魂を、売る』と表現している。

 前歌と比べると、勢いは句点の乱用で異様なほどそがれているし、『揚げイモ』はかなり風情などとは遠そうな、ごつごつ感がある。一般的な「ポテトフライ」という用語を避けるのも『魂を、売る』一環としての苦行なのかもしれない。ありふれていないことを価値にしようと試みているが『魂を売る』はこの世界の誰もが悩まされているありふれた苦しみであることがつらみだ。

 

「希少価値」