手紙魔まみ感想25・26
腕組みをして僕たちは見守った暴れまわる朝の脱水機を
『僕たち』が登場する。『まみ』は女性であり、女性らしさをたびたびわざとらしいほど強調していたため、この男性らしさがある一人称は違和感をもつ。複数形であることも紛らわしい。妹ももちろん女性である。連作が残りわずかであることから『僕(たち)』はすでに登場しているとして考えた。『たち』のもう一人はまみだと考える。
全体の繋がりを考えて仮説を立てる。「2つ前の歌で会話していた人間は宿泊させていていた、または同棲している、ボーイフレンド、夫などだ、という説」と「たびたび登場させていた『ウサギ』をオスとして作中主体にした」である。
前者の判断の根拠は、その唐突性からそれほど重要ではない人物だと考えたことである。ここでも唐突で力強くはない存在で、前者より後者のウサギの方がよりあてはまっていると考え、「オスのウサギ」を作中主体として考えることとする。『まみ』がウサギの視点から考えているのかもしれないし、ウサギ視点の夢を見たのかもしれない。
『腕組みをして』はもちろんウサギにはできない。比喩的に困った様子の比喩が主な役割ではあるが、あえてウサギにはできないことから書くことで、人間がウサギに感情移入していることを強調している。
『暴れまわる朝の脱水機』は『脱水機』に意志があるかのように比喩でもあるが、『腕を組み』『見守った』『暴れまわる』といった語の手を付けようのないという様子は隣人というより大自然の怒りとして脱水機の故障を見ているかのようである。便利であり恵みをもたらすが、時として災難をもたらすといった性質の類似を意識したのかもしれない。今は手におえないような状況だが、時間が解決する、または時間を置いてから処理しよう、という態度としての『見守った』。
『朝』は前3歌連続で触れられていた『夜』に対する連続性と経過の情報である。
短歌を詠むことのできないウサギがなぜ作中主体になれるのかというとそれは作者である穂村弘がウサギに成り代わって心情を描写しているからだが、連作全体を通した『まみ』も実際は穂村弘ではない。完全なフィクション上の存在であったとする人、する時代もあったし「モデルは実在する」との発表に拒否感を示す者もあったらしいということ、これらは現実、フィクション、短歌の関係を考えさせるヤツになる。
「視点」「故障」「時間」
破裂したイニシャルたちが キ ラ キ ラ と 降 りそそ ぐ J FK M M
本では縦書きのものをすべて横書きで引用しているが、縦から横にすることで効用がかなり失われている。
空白の挿入が目立つが、本中では文字の向き、角度も『キラキラと』以降では乱れた調子で、めちゃくちゃになっている。『破裂したイニシャルがキラキラと降り注ぐ』の視覚的な表現だろう。『JFKMM』を「ジェイエフケーエムエム」で読めば音的に定型といえる。
『キ ラ キ ラ』に空白を置きつつつ表すことで明暗の移り変わり、または神がひらひらとする様子が想起される、『降りそそ ぐ』から落ちていくときに固まったり散らばっ
たりするといった描写になる。
『JFKMM』自体の意味は不明、そもそも『破裂する』前にこの順で並んでいたのかも不明。まみのイニシャルはMであるが、それ以外思い浮かばなかった。
『イニシャル』という現実の物質として存在しないものが壊れ落下する様子を描くというのは『フィクション・現実』の対比のテーマに含まれるといえるか。
回転させられたために、『ぐ』は「べ」『J』は「し」に見えたりした。
「表記法」「現実と文字」