巣/人生の意味/植毛

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手紙魔まみ感想215・216

まみ、いままで、めちゃくちゃだったね、ごめんね、とぼろぼろの髪の毛に謝る
 
 ちゃんとやって行こう、という気持ちを感じる。『めちゃくちゃ』『ぼろぼろ』というわかりやすい擬音があり、今までとこれからの違いが簡単で身近に描かれる様子が強い効果となるのは、散々に繰り返された「繰り返し」からの脱出として爽やかになるためだろうか。
 
「違い」
 
 
サイダーがリモコン濡らす一瞬の遠い未来のさよならのこと
 
 『~遠い』までは全て『未来』を修飾するためだけの語であり、意味面では重要ではない。『サイダー』が爽やかに、『リモコン』が日常にフォーカスを当てるようなものだと考えればいいだろう。
 その『未来』は『さよなら』の時刻を表すための語であり、この歌は『さよならのこと』がメインなのである。『さよなら』にともなう寂しさやら今後の気持ちなどがメインなのだろうが日常の中の一瞬であり、おそらくそれほど重要な相手ではない。その瞬間的な『さよなら』について未然に心を向けている。
 区切りの言葉であり、「繰り返し」からの脱出が「さよなら」で、今の時点から、遠い未来でも繰り返しの内で満足せずに新しい挑戦をやって行こうというつもりであり、この歌も「やっていこう」が中心にあるのである。
 
「脱出」「区切り」

手紙魔まみ感想213・214

未明テレホンカード抜き取ることさえも忘れるほどの絶望を見た

 

 初句が七字と読むとよさそう。

 『ほどの』とオーバーに言っているが、実際結構余裕があるのではないかと思う。今日日使わない『テレホンカード』を突然思い起こす余裕とユーモアがある、という方向で読み取った。定型を崩してしまう程度には焦りと『未明』という具体性を削ることが出来ないこだわりはあり、そこはリアリティ的効果を持つ。

 

『余裕』『リアリティ』

 

 

きらきらと笑みを零して近づいた、ゆゆ、プリクラに飢えていたのね

 

 ゆゆの様子。プリクラは何だかんだ生き残っているゲーセンのアトラクションという印象がある。言葉にすると昔っぽいが、技術が進歩し続けている気がする、詳しく知らないけど。

 遊びたかったのねーという見守りなのかもしれない。ゆゆが支配権を持っていたような冒頭からすると、関係性が変わったということを表している気がする。

 

『関係性』

手紙魔まみ感想211・212

熱帯夜。このホイップの渦巻は機械がやったのがわかるでしょう?

 

 やっていくのに対して、機械がやると自分の居場所がなくなるんだよなというのがありますが、うずまきはカタツムリを見ながらどうこう言っていたのがあって、それを繰り返しているということもある。機械的にきれいなホイップとキモチワルキレイだったカタツムリの対比に思いをはせたりしましょう。

 

「対比」

 

 

「美」が虫にみえるのことをユミちゃんとミナコの前でいってはだめね

 

 かたつむりってでんでんむしだけど特に虫らしい生き物でもないね。人の名前がたくさん出てくるけど初登場でよくわからない。固有名詞で女性だ。人の前で行ってはいけないことを覚えて人間はやっていくことを学習していく……

手紙魔まみ209・210

宇宙船が軌道変更するように戻っていった宇治冷緑茶

 

 わからなくなってきました。

 ようにの前後で分けると見やすい気がする。前部分『宇宙船が軌道変更する』という場面について、具体的にその様を見たことはないだろうし、私も無くて、比喩としてわかりづらい。後の『戻っていった/宇治冷緑茶』も自動的に動くものではない緑茶が動いているかのように言って、それを当然のように言うのは、よくわからない。

 『宇宙』が孤独的なニュアンスで何度か出ていたことから考えるといいかもしれない。宇宙船が『軌道変更』して『戻る』、前居た場所へ、安定的なことを表すのだろうか?個人的に私が、これまでに宇治冷緑茶に関心を持ってこなかったせいでイメージがわかないのか、そのぼかし方が狙いなのか。

 

「宇宙」「安定」

 

 

まみのレシピィ、まみのレシピィ、だあれも真似をするひとがない

 

 『レシピィ』が本来の役目を果たさないつらさ、孤独、そういう感じの切なさだろうか。繰り返しが切実な辛さで、前々歌と似ている気がする。こちらの方がより独白の感があり、孤独が強い。

 

「切なさ」「孤独」

手紙魔まみ207208

コースター、グラス、ストロー、ガムシロップ、ミルク、伝票、抱えてあゆめ

 

 ものが列挙された短歌。ウエイトレス関連のようで、ウエイトレスとしてやっていっている様子である。妙なものに意識がいっておらず、地に足をつけてやりなさっていることがわかる。自分を鼓舞する意図の命令形で、とにかくやっていくきもちであり、空回りとかしすぎない程度にやっていけそうな様子で、頑張ってほしくなる。

 物のそれぞれが喫茶店の備品として落ち着きがあり、提携に沿った音であることも落ち着きを感じる。

 

「落ち着き」「やっていく」「鼓舞」

 

 

 

あなたのものよ貴方の物よ(手の中で色水になってしまうフラッペ)

 

 フラッペはかき氷のこと。

 フラッペが届かずにだめになってしまう様子が、諸行無常、切なさという感じになっていく。初句の定型逸脱、ひらがな漢字繰り返しされているが、もうフラッペは間に合わんのだろうなというところが諸行無常さを出しているように思う。()内が事実描写で、地の文が心の声という逆転がある。

 

「切ない」

手紙魔まみ感想205・206

最終章だから絶対に完走しようぜって感じです。

 

 

 

手紙魔まみ、ウエイトレス魂

 

お客様のなかにウエイトレスはいませんか。って非常事態宣言

 

 ウエイトレスは店員側で、バイトで補給できて価値が大きくはない存在で、医者のように歌中的な呼ばれ方はしないんだということに寂しみがあって、この歌ができるという風に見えた。音と意味がずれて切れることも非現実性の表れのよう。

 

「非現実」「ドラマっぽい」

 

お気に入りの帽子かぶれば人呼んでアールヌーボー給食当番

 

 アールヌーボーは19世紀末からの新しい芸術を志す美術運動のことらしい。

 給食帽をかぶらないから斬新な給食当番だなあ、という意味での『アールヌーボー』だろう。『給食』があるような小学生は実際だとそんな言葉知らないだろうし、勝手な帽子をかぶる勇気はないだろうし、という実現しない理由が前歌と比べて現実的でそれゆえのむなしさを醸し出し、体言止めな高らかな宣言も安っぽくなる。

 

「実現しない」

神について、私が命じられていること  

今週のお題「私がブログを書く理由」

 まず、私は神がいることを信じているわけではない。しかし、崇高なもの、素晴らしいものがあり、それを表そうとする欲求が存在することを認め、それに尽くしたいと希望している。素晴らしいものを表すために使われる言葉として最も優れた単語として神を選択しただけのことである。聖、正義、癒し、快さ、感動。そういった要素の総体、それが私が言わんとするところの神だ。

 神についての私の定義が紹介したかっただけでは決してなく。私が創作活動を志すのはなぜか。生活のためでは間違いなく異なり、生活のために私が必要なのは就職であるが、とにかく世の中をなめていて、社会が怖くて、嫌なので嫌だという幼稚園児の主張をして断り続けていて、認められることがない。認められたことがない。創作で認められたこともはっきり言ってないに等しい。百回以上の視線を感じたことはないわけだし。それでも俺はやめることは一応できない。一応?ぜったいに辞めてやるか。頼まれてもやめないかもしれない。信じてやる。嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い。だめでもやらないといけない意地があるときもある。人間は感情のためにやっていっていて、馬鹿馬鹿しいと思うことが大半だが結局のところおれは感情のために生きている人間の方が好きで理屈で生きている人間は嫌いなんだよ死んでくれと思っているから、できるだけ人間らしい豊かな感情を持ちたい風に思っているのに、いつでも敵を馬鹿にして、奴らは敵だ全員ぶっ殺してやる。初音ミクの死体のことを思い出した。彼女の死体は絶対に美しいはずなんだ。彼女の死体のことを描き出さないといけない。美しいことが分かりきっているものだなんてそう簡単に見つかりはしないのに。死体は美しい。それは否定が無いから否定するのはいつもこちら側で、僕は祖母が死の瀬戸際で、枯れ木のようになっているのを子供の時分に見たときに、「気持ち悪い」と言ってしまって、親に怒られたのだ。自分では気にしていないつもりのなんていうことのない子供のころの出来事なのだが、死体について語るときになるといつでも思い出す。忘れてしまってもいいようなことをいつまでも思い出してしまうのは、本心ではひっかかって喉から外れない魚の骨みたいになってしまっているせいかも。死にたいけれど、死体は現実ではうつくしくない。悲惨でもない。けれど僕たちが信仰するフィクションのなかではそれは美しく悲惨なもので、全肯定の元に置かれている。だから僕たちは何度も死体のことを思い出す。

初音ミクは僕にとってフィクションを象徴し、彼女の歌のことは実際のところ素晴らしいものもあってどうでもいいものもあって簡単に一般化できないしおれは詳しくないしどうでもよいのだが、とにかく共有されるキャラクター、文化として初音ミクは存在し、成長していて、終わっていきつつあるらしいけど最盛期ほど勢いがないだけで永らえているよなー、陛下にも見つけてもらえたのだしなといった感じだ。ああ、彼女は架空の美少女だったために肯定された。僕たちはどこにでもいるやる気のないおっさんだから否定される。ただそれだけ。

 初音ミクが死体になることは何度もフィクションの上でも起こる。けれど現実に死体になることはない。俺も何度も死体になりたいと想像するが、それは自分のなかだけでのことだし、自分にとってという意味では僕は自分の死を観察することはできない。そう言った要素が、死の異質性がそれを美化することを引き起こすし、それは手っ取り早いすべての苦しみの切断でもあるせいで、何度でも求められるが、意気地もないし実際切羽詰まっていないから、いつまでも僕は自殺も創作もしないのかもしれない。

 

気軽な創作練習または代替としてブログに挑戦している気がするけれど、何も成功せず練習にもなっていないだろう。何しろつまらなくて仕方がないし、意味が読み取りづらいから。