巣/人生の意味/植毛

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ラインマーカーズ感想152・153 『ラヴ・ハイウェイ』全体

高速道路の水たまりに口づけてきみの寝顔を思う八月

 

 『高速道/路の水たまり』という六音の字余りから始まり、このあたりの歌の共通点。『高速道路の水たまり』は決して触れることのできないもののように登場し、これまで描かれていたが、この歌ではそれに口づけをし、じっくりと浸るようにする様子が描かれている。『寝顔』のいくら眺めてもこちら側からだけ見ることができるといった性質から来るゆったりとしたイメージなどがその情景の想像を促しているともいえるだろう。ここまでの暴力的であったり品のなかったりした表現とは真逆の落ち着きがある。八月という時の設定が示されているが、同様の表現は「靴にスプレーで旅費七月」という歌でも使われている。時の経過は厳然たる事実であり、幻想や創作物中にも存在するものである。または、それにのめりこむ間に、外部の現実世界に存在しているものである。

「時間」「穏やか」「浸る」

 

 

 

改めて作中主体の死を前提として見ると、穏やかに眠る恋人と激しく損傷して事故死した主体の対比から、もの悲しさも感じられる。

 

 

 

きらきらと海の光を夢見つつ高速道路に散らばった脳

 

 

五七五七七の定型であり、落ち着きを感じる。

『散らばった脳』というグロテスクなものがここで描かれている事実である。『夢見つつ』までは脳が空想している物の描写。脳は前回まで作中主体であった者のであろう。ここでは作中主体は別の存在で、ナレーション的な物だろう。第三者視点から客観的に事実を述べようとする存在であり、作者や読者の立ち位置に近い。それが「脳は海の夢を見ている」と判断している。脳が散らばるほど激しい事故によって、彼はすでに死んでいるのだろう。

 「事故死」「視点」「事実」

 

143の( )の歌は走馬灯であり、次にすべきことの判断、現在そこに広がる風景、欲求などが支離滅裂に浮かび来る、物理的にも脳が飛び散り、ばらばらになっていくといった様子について描写しようとしているものである。『笑顔』や『聞きたい』は今会いに行っている相手のことだろう。

 

 149では毎月(毎日)やっているというのも矛盾に対する回答ではあるが、そもそもNASAもお誕生日会もない、というのが私の考えである。

 

事故死しなくとも、あまりうまくいっていない状況であったことが読み取られる部分が多く、これがバッドエンドであると断言しづらいものになっている。自暴自棄になって起こしたヤケであって、絶命途中の脳の起こすハッピーエンドが現実化するようにはとても思えないからである。

また、そもそも彼女がいたのかどうかも疑わしいという考え方もある。NASAはアメリカの機関であって、日本にはないし、ふらっと研究員になれるようなものでもない。ここから「NASAはあくまでも比喩であってそれに似た場所に行った」と「優秀な恋人の存在がそもそも妄想であった」という設定ができる。

どちらにしても断言は難しそうだが、割とはっきりしていることは、この「気の毒な主体」は短歌の連作の登場人物であって、現実には存在していないであろうということである。作者である穂村弘は事故死しておらず、生きているからである。もしかするとモデルになった知り合いなどがいたのかもしれないが、いなかったとしても読者にとっての感情に与えるものには大差がないだろう。惨めに死んでしまった人物なので、いない方が気持ち上穏やかともいえる。そのような完全な虚構の存在に対して、私たちは心を動かされることができ、作者はそれを通じて心を動かした。意味や無意味についてを考えることができる。

 

この連作の前に、歌集から代表的な物を抜き出してあって、ひとまず飛ばして完全な連作で感想を書いていくことにした『手紙魔まみ』は、ある人物を中心とした連作だ。その人物は存在することが正式に発表されて、それに対して色々と感想があったようである。他の人の感想も参考にしつつ感想をやっていきたい。