巣/人生の意味/植毛

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手紙魔まみ感想143・144

正午にはお部屋の鍵を回してた/午前と午後に手紙を書いた

 

 創作行為をしながら「無では?」という疑念を抱くという気持ちと重なるところがあるが、これは自己の体験から勝手にが当てはめているだけの行為ではある。

 

 

 

 私は

何か書こうと思いつつ部屋の中でダラダラして唸りながら日を過ごすようなやり方をしてしまうこと」がそれなりにあって、それは「怠慢であってどこかそれを受け入れるべきではない」という気持ちを持っていて、けれど「変えることはできない」でいるという状態で、つっかえにしつつ「私は弱いので変革できていない」と、けれど「『怠けていたい』というのとは絶対に違うのだ」と「言いたいけれど言えない」ような生活感

 

だと、だから

ぜひ「他人にも似たところがあるのではないか」ということを血眼になって見渡しているので、日の過ごし方について惜しんでいる人間を見つけると、それは「と似て」いてだから「も仕方がないし、こういうことってあるよね」という共感と納得、そして諦念へと持っていき「たがっている」のだという考え方になるだろう。

 

 

 

 

 私の生活とこの歌から取り出しをするならば「同じことをして午前と午後を過ごす」「それは文字」ということがある。

 前半部が正午の行為への言及。部屋の鍵を回すというのは、そこから出た時か入る時である。一日に一度しかそれをしないことは異常なので心に留まる。手紙を出す、または生活上の些事を行うために外出が必要なのだろう。フリーターとしては働いているらしいので、夜もそちらにいるのかもしれない。『手紙』を書くといっても、必ずしも出すことが決まっているわけでもないので、物理的に手間は必要ないのかもしれない。主体としては、働きながらでも趣味や偏執として「手紙」へと思考が向かっている?

 手紙を自室で、一人の時に机に向かっている時のみに行うのだろうという先入観を否定するのでこの歌は独特の価値があり、そういうのが歌のくびれになる。

 

 「時間」「行動」

 

 

 

ウサギの骨(粉)をなめなめいくつものよるひるあさをすごすのでしょう

 

 ウサギは愛するペットであり、間接的な自己愛の表出という見方でいくと、一度死んだウサギに、いくらでも代わりがいることに気が付くことが自己の唯一性を揺るがし、自尊心へダメージを与える。一度ウサギが死んでしまったことを受け入れて、さらにその代わりのウサギを手に入れるのではなく、そのウサギ自体のことを思い出し、『なめなめ』という執着を残しつつも一歩引いてバカにするような視点を忘れることなく、つまり本格的な依存は避けてうまいこと新しい生き方をすることを目指そうと気持ちを切り替える意思。また、『でしょう』は改めて客観視するという手法で何歩か距離を置いて、主観的な見方ではなく客観的で多角的な見方を心掛けているのである。今までは、それは無自覚的な自己であって大事に抱きかかえ長良でしか見ることができなかった状態を脱却したいのだ。

 『骨(粉)』も二重に現実とイメージの間の教会の存在をイメージさせるための手法で、骨では舐められそうな気もするが、粉にしてしまっているのでもちろんそういうことはできない。

 

 「ウサギの死」「生活を過ぎる」