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ジュリアンジェインズ『神々の沈黙: 意識の誕生と文明の興亡』の感想文

 神々の沈黙とはコレです。読書メーターも置いておきます。読書メーターをやっている話もブログやツイッターでしたこと無かった気がしますが、この際宣伝してみます。

 

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

 

 

https://bookmeter.com/users/792033

  最後では無く最初に自分自身の興味関心のことを話しますが、要約っぽいものが読みたいのなら適当にスクロールして目次のとこまで飛ばして読んでみてください。

 

 

 神や宗教というものは地球のどこの地域の集団にも類似したものが見られるものだ。そういう意味では普遍性があるが、それぞれは互いに独立したものでもあるどころか、互いのことを憎み排斥しあう性質を持つことが多い。また、少なからず道徳的でもある一方、極めて不合理で特異な主張も併せ持つ。人が宗教を持つ・惹かれることを説明づける試みはそれ自体が興味深いものであることも多い。エスニック趣味にも似たような、ある意味での野次馬的な好奇心についてもそれなりの人間が納得するだろうと思う。

 この際ブログでもかなりはっきりと立場を強調しようと思うが、私の思想の根幹にあるものは「神など居らず、いたとしてもそれは偉大な人格者だったり、被造物に何らかの関心を向ける存在だったりはしない」だ。無神論あるいは不可知論と言っていいだろう。日本人の大多数がそうであり、少なくとも若者であればほとんどがこのように考えると言ってしまっても的外れではあるまい。信仰のお話は、多くの場合に客観立場からは真剣に論ずることも馬鹿馬鹿しいものとして映るが、それでも真剣に信じている人間は一定数いるし、彼らが直接的な危害をかけるのでなければ彼らの間で自由な信条を抱いていること自体は批判できない気持ちが起こる。また、彼らが科学的思考や論理的思考について劣っていると一様には言う事など全く出来ず、私などよりずっと優秀な人間がごまんといるのも、明言すら馬鹿らしい程に当然だ。

 それでも、私は超然とした意思や奇跡のような行いがあったという話について全てを片っ端から否定したいような思いに駆られるほどにそれらは存在しないのだと強く確信を持ちつつ、祈りや望みが精神衛生に役に立つものだということもまた理解している。真摯に信仰を持てるような人間であった方が幸福だったのでは無いかと考えることも常々だ。

 話は変わるが美しい娯楽と言うものがあり、映画、漫画、アニメ、ゲーム、小説、短歌、詩など様々にある。芸術と呼ぶのは気恥ずかしいが、私がそれらのために生きているのはある程度において事実である。消えれば物理的即死とはならないが、人間、特にある程度生活に余裕のある環境で生育してきた現代人にとって、趣味や潤いが生活の中に存在しないことは耐えられない事のように想像される。

 現代日本ではよほど極端で無い限り、生存のための衣食住のような段階で、生物的な意味で労力を払う必要はほとんど無い。第一次産業従事者が直接的に食糧を確保すると言っても、その技術はとっくに体系化され、他の職業と極端には異ならない方法で学習、継承されるのだし、睡眠や排泄の手間については他の人間と同じ手順を踏むのだから特別視するほどのことはない。しかし、科学的視点から人類の過去に思いをはせれば、他の類人猿と数歩しか差の無いような次元、採集や狩猟によって食糧を確保し、他のグループや動物からの襲撃に備えたりといった野生の生活がいつかあったのだろうことは思い浮かぶ。ホモ・サピエンスが種として分岐したのは20~180万年前ほどだと言われているらしい(wiki情報、『ホモ・サピエンス』の項ではそのようになっているが『人類の進化』の項では40~25万年前とある)。

 しかし、やがて人類は文明を発達させた。本書の中にある文明の定義は「全住民が知り合いどうしでないほどの広さの町々における生活術」であり、最古のものとしてはイスラエルのアインマラハ遺跡の紀元前9000年頃などが挙げられる。そしてほぼその時点から、ある程度前後はするかもしれないが「崇拝」のようなシステムによって集団は構築され始める。それらの集団における生活は厳しく、猶予などなく全てがギリギリのやりくりだろうと想像される。生活道具や食料は常に不足していたはずだ。しかし、ほとんど全ての集団、少なくともその時点で強者だっただろう(遺跡などの残存物が現代まで遺る)巨大なグループは宗教に多くのリソースを注いでいた。木や石によって神像が造られ、それらに衣服や食物までもが捧げられる。発達した文明の王族の巨大な墓へ、生きたまま(殺してまで)臣下まで埋めることまでも、ある程度各地に見られるのである。すると、これらはおそらく合理的な必要性や習性、必然性などの何かしらに迫られたものなのだと推測するには十分だろう。

 それらについて、本書では次のような仮説が提示される。大昔の人間は意識を持たなかった。右脳が幻聴の形で命令を下し、その命令に逆らうこと無く従う自動人形のようにすることで文化、社会生活を営んでいたのだ。これを〈二分心〉(〈二分心〉の人間、文化、時代など)と呼ぶ。この幻聴は親や指導者、故人や王、先祖や神の声として受容されていたのだ。この幻聴を聞く鍵、きっかけとして偶像が機能したためにそれらは祀られ、衣食や豪勢な墓を要請したのである。文明発達の長期間にわたってその状態は続いたが、やがて〈二分心〉は衰退し、そうなって始めて人間は意識を持っての活動を開始した。この移り変わりは紀元前1000年代(3000~4000年前)にかけて起こったのである。

 そしてそれ以後の宗教や文化にも〈二分心〉への憂愁、痕跡が散見されるとのこと。以下から本書の構成に従って話を紹介する。

 一旦目次を挙げておく。本書はとても丁寧で章ごとに最後の部分で結論とその話をした意義や狙い、次章への繋がりなどを逐一まとめてくれたりしてわかりやすい。この大胆で胡散臭い仮説を見事に説明してみせるので、私の疎い説明だけで怪しむよりも、実際に本書を手にとって欲しい。 

 

序章 意識の問題

第一部 人間の心

 第一章 意識についての意識

 第二章 意識

 第三章 『イーリアス』の心

 第四章 〈二分心〉

 第五章 二つの部分からなる脳

 第六章 文明の起源

第二部 歴史の証言

 第一章 神、墓、偶像

 第二章 文字を持つ〈二分心〉の神政政治

 第三章 意識のもと

 第四章 メソポタミアにおける心の変化

 第五章 ギリシアの知的意識

 第六章 ハビルの道徳意識

第三部 〈二分心〉の名残

 第一章 失われた権威を求めて

 第二章 預言者と憑依

 第三章 詩と音楽

 第四章 催眠

 第五章 統合失調症

 第六章 科学という占い

 

 『序章』はいきなりポエムから始まるのでびっくりするが、心あるいは意識と呼ばれる存在がなんなのかが分からないことについて述べられる。いくつかの有力な説について検討するが、どれも正確では無いのだと述べる。

 『第一部第一章』では意識が何ではないのかについて検討した結果、活動のほとんどに意識がたいした影響を持たないものであると結論される。このことから意識を持たないままに人間は活動可能では無いかということが仮定される。

 『第一部第二章』では意識が比喩によって言語で作られたモデルとして定義される。この定義に従えば、言語の無かった時代には意識もまた存在さえしなかったのである。

 『第一部第三章』では前章を踏まえ、言語の進化を研究することで意識の起源を求められるのだと推論する。そこで、確実な翻訳が行える人類史上最初の著作として『イーリアス』をサンプルに検討を行う(象形文字楔形文字といった記述の翻訳は正確なものにならないとしている)。結果、そこに登場する英雄は主観を持たず、神の言いなりになるだけの気高い自動人形だったと結論される。

 『第一部第四章』では〈二分心〉の人間の内面がどうだったのかということを、統合失調症患者をサンプルに推測する。幻聴に対し、聞き手側ができることは何も無いどころか、逃れることも逆らうことも許されないことが示される。聞き手側の思考など関係なしに、幻聴自体が自動で考えて絶対的な言葉を聞き渡らせるのである。この作用、幻聴のことを神だと解釈したものが「〈二分心〉文化圏」であったとは考えられないだろうか。実際には自分が得た情報についてを無意識で統合し最適な命令を下しているに過ぎない幻聴のことを、自分の周りだけではなく全世界において全知で、時にはそれらの創造主でもあるような、偉大なる神として認識するという共通認識が、古代文明の実体だったのではないだろうか。そのような捉え方が文化的背景、言い換えるならば常識として浸透する環境中で、それらの古代人があえてそれに逆らうことなど考えもしないのではないだろうか。〈二分心〉で意識を持たない時代の人間にとって、幻聴意思そのもの神経系における命令という性質を持つ声意思の表れ方だったのではないか。また、ストレスが幻聴を誘発することについても触れておく必要がある。『イーリアス』においても、選択や困難を前にしたときに神は声や姿を表わすことが示唆される。

 『第一部第五章』は脳に刺激を与えたり、事故で損傷を受けた脳がどのような働きを見せるのか、実例を通して紹介される。〈二分心〉について生理学的に神経細胞、神経繊維の働きを通して検証する部分である。正直ここの部分を読んでいるときの気持ちは(けど50年前の研究を元に話してるんだよな…)という話半分の態度だったが、大幅に変な話にもなっておらず、概ね〈二分心〉仮説に都合の良い結果が得られているはずである。2005年に日本語訳が出ることになったんだし、大ポカやらかしはないだろうという信頼にぶら下がりつつ流した。

 

 

 さて、『第一部第六章』から本格的に歴史の話が始まる。この章で語られる部分は文明以前の存在、群れを単位として活動したヒトの祖先が言葉や文明を獲得していく過程についての仮説だ。本書ではヒト族の起源は約200万年前であり、一般的な学説は「その頃から言語を獲得していた」と説明するとしている(ここにも本書自体の古さがある気はする)。霊長類を思い浮かべるとがわかりやすい。現生霊長類は言葉を使わないが、合図やうなり声、仕草の組み合わせによる意思疎通によって数十匹で構成される群れを作ることが出来る。このことは、初期の人類についても例えば脳や手足、発声器官などの身体機能において現代人と遜色ない段階に達してからすらもいくらかの(しばらくの)間、そのように意思疎通を行い、言語は持たなかったのではないかという可能性を検討することを迫る。『ラップトップ抱えた石器人』というのが国語の教科書にあったことが思い出される。

 本書が言語の発生時期として想定するのは更新世後期(紀元前70000年前~紀元前8000年前、氷河の状態変化による気温の変動などが起こった時期)であり、言語の発達にはそれに伴った文化的な考古学的証拠が残されるはずであるという前提に基づいた仮説である。言語の発明の順序は呼び声→修飾語→命令→名詞→名前と発達したのではないかと考察される。また、幻聴の起源も道具を作る/使う中にあったのでは無いかという仮説が示され、例によれば石をより鋭くとがらせる作業を継続するために「より鋭く」という絶え無き命令が聞こえていてた、など。魚を捕るための仕掛けを用意するといった、時系列立てた考え方を必要とする作業を行うためにも声による命令は必須だったという(言語を持たずに時系列立てた思考を行うことは出来ないため。罠をしかけている段階では魚の姿すら見られないので、作業を継続するためには取得中の情報以外の要因が必要だったのではないかとしている)。この時点のヒトには意識や〈物語化〉の能力は無い。

 やがて人類は文明、定住といった段階での生活を開始する。そうすると人間は指導者の命令を聞き、作業にあたってそれらを幻聴として反芻することでやり通す。しかし、ここで幻聴が王の下した命令を丸写ししたものであり続けるだろうか。統合失聴者が聞く幻聴のように、本人の意識では無い部分で考え、問題の解決に積極的に役立ったのでは無いだろうか。しかも、それは最初に命令を下した王自身と紐付けられて、王の懇切丁寧な指導が有効な労働の成果に結びついた、という認識を確立させはしないか。そうであるならば、王はますますの尊敬を集めるだろう。

 また、その王が死んだ際には莫大なストレスによって各人に幻聴が発生するのではないだろうか。そして、それは当の死者本人の声による幻聴である場合が多いのではないか。そして丁重な墓に葬られてなお、墓自体がストレスの引き金として幻聴を聞かせ、この王と墓の持つ力の延長に巨大な王の墓があると考えることも可能だろう。時代が下ると、新たに彼の跡を継ぐ王が先王の亡霊の声を直接賜る役割につき、墓に変わって神殿、亡骸に変わって像が置かれるようになっていった。

 『第二部第一章』ではその神や墓、偶像の持つ作用について語られる。現代においても町の土地計画で、ひときわ大きい家を取り囲むように普通の家が建築されている時、その大きい家には統治者、権力者がいることが想像できるだろう。コレが古代の場合には、神や像がそこにいて、〈二分心〉やそれに由来する文化があったと読み取ることができるのだ。

 王は神と同一視され、やがて墓は神の居場所とされた。初期の偶像は王の亡骸や頭蓋骨だったが、後に王または神を象った石や木を用いるようになった。しかし、象って作ったからと言ってそれは神の代わりとしてではなく、神そのものだった。幻聴が聞こえることを「像が命令を下した」と古代人は解釈したはずだ、と著者は推測する。これらの偶像において目が異常に大きいことや宝石がはめ込まれたことの背景に、視線交錯の錯覚が催眠効果をもたらしたのでは無いかとも示唆される。

 この章では南アメリカ大陸の先住民が例としてよく取り上げられる。文字を用いた〈二分心〉が次の章で担当されることもあるが、最大の重要度を持つのはスペイン人によるインカ帝国の占領だ。無学、独善的、迷信深いキリスト教徒という性質をもつ征服者たちにとって、怪しげな像が語りかけると信ずる現地人は、まさしく悪魔と交信する異教徒そのものであり、彼らは驚きや不信では無く純粋な恐怖によって先住民を悪魔の崇拝者であると信じ込み、虐殺、奴隷化、強制改宗などを迫ったのではとも考えられる。

 『第二部第二章』は文字記録によって考古学的考察が可能な領域を扱い、メソポタミアやエジプトが主なサンプルとなる。〈二分心〉に基づく神政政治は一定の成功を収めて人口を増やし続けた。〈二分心〉はシステムの中で発達し、宗教の第一段階といった様相を見せる。しかし、人口の増加に伴って複雑化する問題に対応し続けることに〈二分心〉は限界の兆しを見せ始める。

 『第二部第三章』はそういった問題を解決するための手段として〈二分心〉とは異なった問題解決方法を探る中で意識という能力が発達し、やがて意識が〈二分心〉に置き代わったという筋立てを考え、ありそうな仮説が呈示される。同様の〈二分心〉を共有しない文化間(異国同士)においてなされる交易。幻聴と類似し、誘発する傾向のある「声」を用いずに指示や情報を伝達する方法である「文字」の発達。不作や強大な軍事異民族の侵入などのあまりの不測事態に適切な指示を下すことの出来ない〈二心法〉の欠点。これらの要素が、人に幻聴を疑うことや抗うことを促し、自分で考えを言語にして整理し、状況を判断する意識の発達をもたらしたのではないだろうか、と。

 しかし、意識によって思考する方法を採用してもなお、人間は神を完全に棄却することはしなかった。むしろ「絶対的に正しく行動を導いていた〈二分心〉の幻影」は理想化、聖化され、〈二分心〉への憂愁をテーマにした第二段階の宗教の時代が始まる。そしてその推移についてメソポタミアギリシア、ハビルの民という例を挙げて語られるのが『第二部第四~六章』である。ハビルの民とは現代語でいうところのヘブライ人であり、旧約聖書を分析の対象とした章である。

 『第二部第四章』、メソポタミア。直接に語ることの無くなった神を媒介するものとして天使、神と人間の繋がりを妨げるものとして悪魔が想像され始める。幻聴によらず神の意志を示したものであるとして占いも盛んになった。これは古代には偶然という考え方自体が無く、全てが神の計らいによる事象であるように考えられたことも関係している。これらは〈二分心〉による声や命令が聞こえなくなったことを嘆くあまり、考え得る限りの手段を尽くして神の意思を知ろうとする試みだったのではないかと考察される。

 『第二部第五章』、ギリシア叙事詩イーリアス』について、精神や魂というような言葉によって現代意訳される傾向にある「ヒュポスタシス」という用語、語群がどのような文脈で使われてきたか、その変遷を分析する。結果、

客観的段階(外部からの観察結果)→内面的段階(体内の特定の感覚)→主観的段階(行動の原因と思われる内的刺激、比喩の形で行動が起きうる内的空間)→統合的段階(様々なヒュポスタシスが合体し、一つの意識、自己として内観される)

という経過をたどったのだと説明される。

 『第二部第六章』、旧約聖書旧約聖書の物語はあちこちからのより合わせであるが、中には純粋な素材から作られた部分もあり、その中の最新と最古の部分について比べることで実のある比較、検討が行えると推測できる。そのようにして最新を『コレへトの言葉』最古を『アモス書』として比較してみると、〈二分心〉の仮説が丁度当てはまるような結果が得られるという。

 『アモス書』は無学な牧夫であるアモスが語る言葉であり、聖書的に言えば「アモスの口を借りて怒る神の言葉」を筆記者が記述したものである。『コレヘトの言葉』はこの世のはかなさ、むなしさと神を待ち望む気持ちについての思索で、伝説に従えばソロモン王の著作とされる。

 それぞれ分析すると、アモスは自分のことはほとんど語らず、神の怒りについて仰々しい言葉で投げつけ続ける。それに対し、コヘレトは意識や時間について現代人のように考察を巡らせることが出来ている、というように確認される。

 他の書についても、年代と対応して同様の傾向を見られる。後代になるにつれ預言者の仰々しい語りは減少し、神を求める声が高まり続けることを〈二分心〉仮説によって明快に説明することが出来るとする。後期に至ると預言は赦されない行いとなり、殺害すらも推奨される。もちろん、現代に至ってもこのくだりは適用され、預言者であると公言する者がいれば、彼は異端、カルト、詐欺師などと言った糾弾を受けるだろう。

『もし、人が今後預言するならば、その産みの父母はこれにむかって、『あなたは主の名をもって偽りを語るゆえ、生きていることができない』と言い、その産みの父母は彼が預言している時、彼を刺すであろう。  その日には、預言者たちは皆預言する時、その幻を恥じる。また人を欺くための毛の上着を着ない。』

ゼカリヤ書13章3,4節

 

 

 『第三部第一~二章』はキリスト教以前や受容から中世にかけての西洋世界の歴史や文化に関連する内容が多い。一部の選ばれた者だけが神の声を聞く者として期待される「神託」や「憑依」という文化の隆盛と衰退。聖書に記された創造神は言うに及ばず、上記の手法によって聞かれる神々のそれぞれは嫉妬深く、他の神託者や飾られた彫像に激しい攻撃性を示した。排斥や争い、偽預言者の糾弾が始まっていく。

 また、著者はイエス・キリストは〈二分心〉の人間のためでは無い、意識ある人間のための宗教が必要であることを理解してユダヤ教の改革に臨んだように書いてある(私が微妙に著者とそりが合わない部分だ)。キリスト教の教義を特別な注視を持って検討すれば、〈二分心〉と意識の折り合いをつける上で役に立つ教義であることについては同意できる。「罪と贖罪」は十戒への反抗や外的罰という「観察される外側の状態」から、意識的な願いと悔い改めという「内側の状態」と移り変わり、神の御国と平安も内なる存在に移行した。個人的にはイエス・キリストや原始教会がそれら全てを達成したとは思えず、近代化の中で角が取れたのではと思うのだが、著者としては創始者の意図に忠実なキリスト教は、意識ある人を律する目的で創立された。絶対者への憧れ、目に見えるヒエラルキーの構築はか弱き世俗権力とかの責任であると言いたげな様子だった。

 本来のキリスト教は「道徳的意義」を目的に据えた第三段階の宗教とも言えるものかもしれない(第一、第二段階を含めて、私の勝手な分類であり本書中にはそういう記述は無いことを補足しておく。また、他地域でもある程度時代が下ってからの普遍宗教にはこの機能が見られると考えて良いだろう)。

 

 『第三部第三~五章』では歴史の流れについては脇に置き、現代に残る〈二分心〉の名残について語られる。まずは詩と音楽が元々右脳と〈二分心〉に由来する物だという説明。厳しい気分・状況になったときにポエティックになるという人間の習性が〈二分心〉のせいだと言われても眉唾物だが、脳の活性化する部位や切除後に起こる発話と歌唱の能力の変異によって補足されるとうまく否定することも出来ない。

 次に持ち出されるのは催眠であり、手順に則った誘導で平時ではあり得ない感触を発動させる技術を〈二分心〉仮説に従って解説するとどのような結果になるか、といった話。

 最後は統合失調症の話で、異常な強制力を伴った幻覚、幻聴とはつまり〈二分心〉そのものなのである、ということだが、現代に残っているものなので実例や脳の反応は具体的だ。

 

 『第三部第六章』は「宗教に代替する物としての科学」という視点から歴史をたどる最終章だ。

 数字が持つ絶対性、普遍性、確実性などに神聖性を見出す風習はギリシアピタゴラスにさかのぼることも出来るが、キリスト教神学の中でその傾向に惹かれ、自然について神の言葉や神の記述と表現した重要人物に、ガリレオパスカルライプニッツなどが挙げられる。

 科学と宗教の二つは対立する概念ではなく、実際には教会科学が対立していたのだと説明される。教会は預言者からローマ教皇が継承した聖典、科学は現在の客観世界の中で経験される「現象」に(今や働きかけを行わない)神の権威(〈二分心〉への憧れ・絶対性)を見出そうとした(憂愁)。後者である科学が、後にプロテスタント主義、合理主義的科学革命を巻き起こしたのである。科学革命を推進した科学者に、信仰に篤い者が多かったことは象徴的だ(例としてアイザック・ニュートンジョン・ロック、ジョン・レイが挙げられる。三人はイギリス人プロテスタントであり、素人神学者でもあった)。そうするうちに宗教とは独立の確固たる権威(絶対性)を科学が保持するようになった。

 十八世紀に啓蒙運動の合理主義が盛んになると、真実の追求者たちは聖職者への攻撃性をあらわにする。絶対的に正しいものは、現象、あるいは物理科学的説明の中に全て存在するという考え方だ。進化論という、淘汰と競争の繰り返しが生物の発達を促したとする仮説はその最たるものの一つである。恩寵は排斥され、現実の事実だけが真実という特別の位置を占有した。

 無惨なまでの攻撃は宗教の権威を失墜させた。信者の減少、厳かな儀式の簡素化は信徒たちの世界観への信頼をさらに傷つけ、負のスパイラルを発生させる。ある種の催眠状態へ至るための条件(資質)がさらに厳しくなっていくのである。連鎖的に宗教は絶対性、特別製、信用性を失い続ける。

 宗教を失って空白とされた〈絶対性への憂愁〉に、そのまま科学が入るとは限らない。純粋な科学を絶対性であると信頼できない人間は別所の神秘から絶対性を探そうとする。はるかな古代人の信仰や占い、アジアのような他の地域で発達した仏教や瞑想、地底人やオーパーツサイエントロジーのような疑似科学自己啓発、見果てぬ宇宙の果ての異星人、薬物にたよったトリップなどの超感覚的体験など、現在でも非日常の神秘は探す気になればいくらでも見つかる物なのだ。

 または「未だ解明されていない〈脳の仕組み〉が(かつてあっただろう)素晴らしきものへの憂愁固執する性向をもつ」という仮説。この〈二分心〉という仮説を発想することやそれを好ましく受容することも、何かから絶対性を見つけ出そうとする性質の現れの一つなのである、との内容で本書(の本編)は結ばれている。