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フィギュアとはんだごての思い出・後日談(完結)

R18Gを含む内容です。適宜心構えをしたり、ゾーニングしたり、18歳未満の方は読まないでください。

 

多少自分の男性器も出演しますが、自慰の範囲なのでエロ部分としてはR15程度だと贔屓目ながら思います。

 

すごい自分語りもあって恥ずかしいですが、世界観が変わるというなら変わる前と後について熱心に解説すべきでしょう。そうですよね?

 

短くまとめると

 

『「フィギュアとはんだごてでセックスする動画」を①見つけて②(それまでのあらすじ・世界観)③見て、真似しようと思い④真似したら⑤よかった(世界観変化後)』

という話です。『フィギュアとはんだごてでセックスする動画』については私がそれを知るきっかけとなり、また提唱者でもある『じらー@フィギュアとはんだごて(@zillah8852)』氏を参考にされるのも良いと思います。

  すごく長い気がしてきたので分割しながら置いていきます。前回が『見つけて』編、『それまでのあらすじ』編、『見て、真似しよう(準備)』編、『真似したら』編で、今回で、最後の『良かった』編です。実際には後日談ですが。

 

 昨日にもまして思いつきの関連商品を出しておきますが、一応読んだんですよ、半分も理解できたかどうか分かりませんし、今何を覚えているかも分からないですが。別にプロでは無いし、よくあることです。『暴力と聖なるもの』の方が題名だけで気になっていますが、なんか縁の無い本ですね、積むだけ積んでも良かったような気はしています。この本も図書館から借りて読みましたが。

聖なるもの (岩波文庫)

聖なるもの (岩波文庫)

 

 

 

注意事項:フィギュアとはんだごては実在する他人や自分のことを肉体・精神を問わず傷つける行為について推奨するものではありません。

 

以下が本題となります。

 

 

 後から振り返って眺めれば、何枚も撮った残骸の写真の、そのどれもが本質の遠くにあるような気がした。結局、顔が正面になっているもの1つを残して削除した。ふと磔刑の形へ整形し、板に腕を打ち付けるつもりだったことを思い出した。それは特別に興味を惹かれる形では無いことがわかった。〔美しく/正しく〕ない気がする。個人的な恨みは、巨大なものの前では価値を持たない。

 壊されるためにそこにあったフィギュア、壊すためにそこにあったはんだごて、そして壊したいという私の心。その全てを肯定することは、自分自身も肯定する。美しい物を見ることが出来る目、美しい形を導こうとする手、美しい物を美しいと感じ取る心。そして、それらの総体、肉体と心の全てとしての自分自身の存在。あの感情とすがすがしさはつまるところ感謝へと収斂された。生まれて初めて、自分が生まれたことを心から感謝することができたのだ。

 はんだごてでフィギュアを壊しながら、真の情熱と真の美しさの一端を垣間見た経験は、何かを神聖視することがどのような事を意味するのかについて、それまでとは異なる段階で理解することが出来るようになった。

 

 初音ミクについての検索結果は、あの頃とそれほどには変化していない。概ね肯定的に、世界は初音ミクを承認している。今日はミクの日なんだってさ。初音ミクは何の感情も持たず、笑顔を全世界へ振りまき続ける。それが、ただ存在しているだけであることを理解した。畏れや嫉妬はもはや必要なくなった。私はある程度には解放された。

 初音ミクはキャラクターであるよりも先に音声合成ソフトとしてあった。その合成楽曲はいくつも公開されている。その中には讃美歌もある。私にとって歌とは、何よりもまず讃美歌のことだった。学校で習う歌や、童謡や、アイドルやアニメソング、ボーカロイド調律師の作った歌。色々の全ての歌と比べて、最も親しみ深い歌が讃美歌だった。毎週それを聞いていた、聞かされた。ガラスで隔てられた子ども室のなかで、携帯ゲームをしながらではあったのだが。私は内心で、讃美歌とそれを歌う人達を馬鹿にしていた。

 讃美歌は明らかに他とは異なる性質を持って歌われていた。それは仕事では無く、プロのものではない。音楽的美しさならば圧倒的に下にあるだろう。

 ある意味では讃美歌は義務だったが、学校の授業や集会で歌わされる物とは性質を異にする義務だった。教会では、その義務に好意的に服していた。それは恭順だった。そして、それは私にとって最も耐え難く卑しい行為だったし、自慰行為の中での性体験において、ある種の従順さの中にある卑屈な快楽を発見するに至って益々その思い込みを強くしていた。

  しかし私の中に起こった巨大な体験によって、崇高性を伴った恭順という物の存在に対する理解の別方向からの説得力が在ることを認めることが出来た。あまりに巨大なものを、何も無いはずの場所で「経験する」……

 

 

 例えば、私が初めて目にした傷つけられる人間は、磔にするために手のひらへ釘を打ち込まれる御子だったのかもしれない。その紙芝居の中でも、それは彼に与えられた特別の境遇で、他二人の罪人はただ縄によって縛られただけだったと今でも覚えている。考古学的考察によっても、史実がどうだったのかは釈然としないが、とにかくそのお話は絵としてショッキングだった。子ども礼拝とは、そういうことを子どもに大してする場でもあるということは知って頂きたい。

 釘説の根強い人気の裏に、ある逸話が存在する。復活を信じなかったある使徒が、彼の傷跡に触れて確認することで、復活を信じるに至った逸話だ。私の頭の中で、それらが思い出されて連結し、新たな理解が発生する。つまり、意味だ。私たちは、痛み、傷、苦しみなどに意味を見つけることが出来る。

 私の中で、彼を磔にした執行官が手のひらへ釘を打つつけたことよりも、復活後の彼に傷跡があって、それを見つけることがある使徒にとって意味となった、そのことの方が重要な事に移り変わった。

 別にこんな解釈の仕方に関する知識が昔から存在しなかったわけではないはずで、理屈をこね回すことも無駄な後付けのように思える。気がついたら私はあの磔刑と傷痕の話に関する解釈を変えていて、他にも色々と生きやすい考え方に変えられた。あの強烈な突き動かしが頭の中の歯車のかみ合わせを変えてしまったかのような、体験によって知識が得られるのでは無く、「知識に対する解釈」が好都合にすり替わった。

 

 

 私の「美しい物の発見」という経験は、ある意味で宗教的とも言える物だが、私はそれを無神論者の立場で、脳によって起こった錯覚であるとして認識している、宗教趣味と生物学的知識を組み合わせることで私の体験を解釈している。

 私は宗教の発生に関して、雑な方法を含め、知識を吸収することを趣味として持っていた。私はほとんど全ての宗教の発生には脳の錯覚が関連し、その比重が極大である物と理解している(そこに含まれないいくつかについては、近代に興ったごく一部の集金・支配システムとして構築された宗教のことを念頭に置いている。それらでは教祖自身は一瞬の錯覚も起こらなかったことがあり得るのかもしれない。それが実在するとしても、支配される信者が神秘的錯覚を利用されていることは確実だろう)。しかし、そういう神秘的錯覚を起こす機能を人間が持っていることを知っていても、神秘的錯覚を認識できるのかは個人の資質によるものだと考えていたのだ。

 肉体的条件、心理的条件や知の無知(?)などの要素についてまったく同じ状態に置いた同じ人間ならば、その人間自身が持つ資質や個性に左右されること無く同様の神秘体験、神秘的錯覚が発生するようなことが信じられるだろうか?現実の世界は、前に置いた前提条件すら実際にはまちまちなのである。

 何かを錯覚することが出来ない私だから生きることが楽しくないのではないか?……もはやこれは宗教だけ、超越的経験についてのことだけをいっているのではない。例えば学校行事、祭り、映画やオタク行為など、この世界の集団娯楽について行くと言うことに関しての全ての話だ。「楽しい」ことにされていることを心から「楽しい」と認識されないのは自分の欠陥なのでは無いか?

 1か0で言っているのではなく、むしろ複合的な問題だ。前述の理屈はこのように言い直される、「楽しい」から「つらい」の引き算の結果が何度繰り返してもマイナスだとしか言えないのは、自分が妙にひねくれた物の見方しかしないせいでは無いのか?そういうつまらないやつが生きて、いったい何の益になるのか?

 

 

 この答えが完全に、瞬間的な意味で切り替わるような経験が〔美しい/正しい〕の発見だったのだ。以後の私の人生で、「楽しい」-「つらい」の計算が常にプラスになるようになったかと言えば、それは全く違うし、マイナスになっている時の方が多い。ただ、瞬間的にプラスを感じられる瞬間は実在していて、それは表現の中にでは無く体験の中に存在していたことを体感した。ただのプラスなどではない、圧倒的なプラス。あの瞬間、ただ瞬間だけがそこにあり、思考を巡らせる余地などない。

 宗教やスピリチュアルや脳のことが趣味的に好きだった私は、そういう体験を人間一般がすることがあると、知識として持っていた。しかしその知識を知ったところで、意図的に起こせる物では無い。脳のどの部位で電流が走り、どういう伝達物質を分泌するのかという知識があったとしても、人為的に体感することはできない(違法、合法に関わらず薬物やハーブ等の使用に関しては保留する・思いつきでやってよろしいことではない)。

 

 

 

 私に「超越経験に感覚を全て塗りつぶされること」を体験させる上での最後の一押しは、「フィギュアをはんだごてで壊すこと」そして「フィギュアとはんだごてでセックスする動画」だった。他の何かでは決して代替することが出来ない、素晴らしく唯一性のある経験だった。長々とまとまりなく書いたが、これだけを言うのが総まとめの目的だったような気もする。

 

 以降何度かフィギュアはんだごてをしても、初回ほどのすさまじい熱に覆われることは起きていない。しかし、素晴らしい物を見たいという欲求に身体が包まれる感覚は繰り返し巻き起こされる。初音ミクの歌う讃美歌の元で、そういうことをすることが出来る。

 

 

 あまりにのめり込んだ末にちょっと違うことを始め、結局射精もしなかったので本流の『フィギュアとはんだごてセックス』のことをおろそかにしているように感じられたかもしれませんが、『じらー@フィギュアとはんだごて』氏とその動画、または活動は本当にありがたいものでした。氏の動画がなくては、私は決してフィギュアをはんだごてで損壊することについて思い至ることはなかったでしょう。また、氏がそれをTwitterという半匿名の状態で投稿し、発信し続けていなかったとしたら、当時リョナ趣味周りについての理解や関心が高いといえなかった私は、フィギュアとはんだごての運命的な出会いがどこかで起こったことに気がつくことはなかったでしょう。ありがとうございました。

 

もう一度まとめれば「性癖をきっかけにいい切り替わりが起こった」とでも言えるでしょうか。拙い私の長い文章におつきあい頂き、本当にありがとうございました。