巣/人生の意味/植毛

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フィギュアとはんだごての思い出・実行編

R18Gを含む内容です。適宜心構えをしたり、ゾーニングしたり、18歳未満の方は読まないでください。

 

多少自分の男性器も出演しますが、自慰の範囲なのでエロ部分としてはR15程度だと贔屓目ながら思います。

 

すごい自分語りもあって恥ずかしいですが、世界観が変わるというなら変わる前と後について熱心に解説すべきでしょう。そうですよね?

 

短くまとめると

 

『「フィギュアとはんだごてでセックスする動画」を①見つけて②(それまでのあらすじ・世界観)③見て、真似しようと思い④真似したら⑤よかった(世界観変化後)』

という話です。『フィギュアとはんだごてでセックスする動画』については私がそれを知るきっかけとなり、また提唱者でもある『じらー@フィギュアとはんだごて(@zillah8852)』氏を参考にされるのも良いと思います。

  すごく長い気がしてきたので分割しながら置いていきます。前回が『見つけて』編、『それまでのあらすじ』編、『見て、真似しよう(準備)』編で、今回が『真似したら』編で、次回、『良かった』編に分かれるでしょう。

 

 はんだごてをやっているとすごい盛り上がりが発生しましたが、それを受容するのに役だったことに、それまでに瞑想に少し挑戦したのとかも良かった気がします。マインドフルネス瞑想です。瞑想には危険も伴うので、それが信頼できる情報であるか慎重に精査しつつ探っていく感じなのかと思います。曖昧。

自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義

自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義

 

 

 

注意事項:フィギュアとはんだごては実在する他人や自分のことを肉体・精神を問わず傷つける行為について推奨するものではありません。

 

以下が本題となります。

 

 

 さあ、土曜日だ。いよいよフィギュアをはんだごてするときだ。窓を開け、扇風機を回した。ガスは身体に良くないらしい。はんだごてはコンセントを差し込むと熱くなり、抜くと冷える。スイッチすらない単純な道具だ。真っ当な用途に高校で用いたことで高をくくっていたのだが、台座が無いことは不便だった。キッチンスペースはガスのために使いたくなかったので、適当に段ボールを重ね、熱くなる尖端が浮くようにした。一人暮らしでは私は裸族で、確か9月頃なら全裸だっただろう。

 レジ袋からフィギュアを取り出し、とりあえず写真に撮ってみた。ある意味未練のみれんなのかもしれない。しかし、ためらうわけではなかった。フィギュアがどのような作品のキャラクターなのか知らず、スクール水着のような格好から、学園物の登場人物だと推察される。けれどそれらはあまり重要ではなかった。フィギュアの腹部に十分熱をもったはんだごてを突き刺した。フィギュアはまるで、熱したバターのようにあっけなく破損した。熱されるプラスチックの臭いは不快で、全く人間らしくないことに私はホッとした。その顔は依然笑顔だったが、私はそれを見ても戸惑うことは無かった。頭に穴を開いて、そこへ大きめの螺子を突き刺した。笑顔は行為が加害ではないことを証明するかのようだった。腕をねじ切りその付け根へ螺子。切断にははんだごてで熱したカッターが便利だった。足も適宜切り取り、胴体に穴を開けて思いついた場所へ差し込んでみる。足と足の間の前側へ自身の腕を植え付けた。裏側に螺子を突っ込んだ。別のフィギュアも取り出した。適当にちぎり、腕をつなげる。目や口に釘を打ち込むときにはハンマーもそれなりに役に立った。口にはもちろんはんだごてを、そして特大な螺子を。ほどほどに堅さを残し、大きさの足らない穴に螺子を差し込むとき、ドライバーも便利だった。刻一刻と移り変わる姿を写真に収める必要は無かった。それよりも早く、これをもっと素晴らしい形にすることの方が大切だった。

 気がつけば私は勃起していた。いつからそうだったのか分からないし、どこで性的興奮が喚起されたのか判定する必要などなかった。それは今までに無く、これからもないほどに堅く熱い状態のように感じられた。そしてそれはどうでもよく、私はもっと正しい形を目撃するために熱中していた。熱と金属が、元々の形をねじ曲げる。腰だの肩だのがあり得ぬ角度にひん曲がる。熱した部分は柔らかくなり、冷えればそれなりに固まる事で溶接のような真似も出来た。どうしてもという、穴を開けないほど細かい腕を釘で補強することもあった。フィギュアと工作具から手を離す余裕はなかった。

 そうしているうちにふと、あと一歩破壊をすれば、これは原形を完全に失うのではと思われた。デザインの洗練とは、何かを付け足すことではなく最低限に削り取る過程にあるという格言が思い浮かんだ。それは完成していなかったが、もう私に出来ることはないのだと悟った。いつかの時点で完成していたのかもしれないが、残されていたのは残骸だった。正しさ/美しさ/情熱は通り抜けていた。既に性器は平常の状態だった。

 壊れたフィギュアと、突き刺さった釘や螺子。それらは元に戻らない。もっと有意義なあり方で、どこかで活躍した未来があり得たかもしれないのに。それでも、何も無駄だとは思わなかった。自分の存在も、感情も、性癖も、何もかもがただそこある。ただそこにあるだけでもあらゆる者は移り変わり、例えば今現在は、それまでの人生のなかにおいて伝聞の中でしか聞くことのなかった狂おしき興奮が徐々に収まるところだった。名残すらいとおしい感触の、その名残事態までがやがて消えた。

 なんとなく、残骸を写真に撮った。正面がどちらなのか分からないから、色々な角度から撮ってからそれらを片付け始めた。釘や螺子はその都度袋から取り出していたし、別段散らかってなどいないのだが、どこかに転がっていったのがないかを確かめてから、ハンマーやドライバーと共に工具箱に置いた。残骸とはんだごては、まだ使っていない買ったままのフィギュアが買ったときから入っている、ビニール袋に一緒に入れた。その袋を押し入れの奥にしまいこんである、もう使わなくなった鞄に入れる。はんだごてが見つかるときは、美しさの残骸の見つかるときなのだと思い、その片付け方、まとめ方はとても理にかなったように思われた。エロ本を隠す時のように、押し入れの中の無造作で自然に見える場所に鞄を置いてふすまを閉じた。一人暮らしのアパートにおいても、それは隠されるべきだった。

 翌日には、予定通りに教会へ行ったはずだ。特筆すべきことは無かったように思う、何しろ特に覚えていることはないのだから。フィギュアはんだごて後も、ある意味では人生は同じように続いたとも言える。しかし、五年前の私と今の私が違ったようにものを考えるようになっている分野について『もしフィギュアはんだごてしてなければ、五年前から今になっても同じように考えていたのではないか』という気持ちになることがそれなりにあるような気もして、明日の今シリーズ最後の更新でそういう部分を考えてみる。