巣/人生の意味/植毛

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神について、私が命じられていること  

今週のお題「私がブログを書く理由」

 まず、私は神がいることを信じているわけではない。しかし、崇高なもの、素晴らしいものがあり、それを表そうとする欲求が存在することを認め、それに尽くしたいと希望している。素晴らしいものを表すために使われる言葉として最も優れた単語として神を選択しただけのことである。聖、正義、癒し、快さ、感動。そういった要素の総体、それが私が言わんとするところの神だ。

 神についての私の定義が紹介したかっただけでは決してなく。私が創作活動を志すのはなぜか。生活のためでは間違いなく異なり、生活のために私が必要なのは就職であるが、とにかく世の中をなめていて、社会が怖くて、嫌なので嫌だという幼稚園児の主張をして断り続けていて、認められることがない。認められたことがない。創作で認められたこともはっきり言ってないに等しい。百回以上の視線を感じたことはないわけだし。それでも俺はやめることは一応できない。一応?ぜったいに辞めてやるか。頼まれてもやめないかもしれない。信じてやる。嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い。だめでもやらないといけない意地があるときもある。人間は感情のためにやっていっていて、馬鹿馬鹿しいと思うことが大半だが結局のところおれは感情のために生きている人間の方が好きで理屈で生きている人間は嫌いなんだよ死んでくれと思っているから、できるだけ人間らしい豊かな感情を持ちたい風に思っているのに、いつでも敵を馬鹿にして、奴らは敵だ全員ぶっ殺してやる。初音ミクの死体のことを思い出した。彼女の死体は絶対に美しいはずなんだ。彼女の死体のことを描き出さないといけない。美しいことが分かりきっているものだなんてそう簡単に見つかりはしないのに。死体は美しい。それは否定が無いから否定するのはいつもこちら側で、僕は祖母が死の瀬戸際で、枯れ木のようになっているのを子供の時分に見たときに、「気持ち悪い」と言ってしまって、親に怒られたのだ。自分では気にしていないつもりのなんていうことのない子供のころの出来事なのだが、死体について語るときになるといつでも思い出す。忘れてしまってもいいようなことをいつまでも思い出してしまうのは、本心ではひっかかって喉から外れない魚の骨みたいになってしまっているせいかも。死にたいけれど、死体は現実ではうつくしくない。悲惨でもない。けれど僕たちが信仰するフィクションのなかではそれは美しく悲惨なもので、全肯定の元に置かれている。だから僕たちは何度も死体のことを思い出す。

初音ミクは僕にとってフィクションを象徴し、彼女の歌のことは実際のところ素晴らしいものもあってどうでもいいものもあって簡単に一般化できないしおれは詳しくないしどうでもよいのだが、とにかく共有されるキャラクター、文化として初音ミクは存在し、成長していて、終わっていきつつあるらしいけど最盛期ほど勢いがないだけで永らえているよなー、陛下にも見つけてもらえたのだしなといった感じだ。ああ、彼女は架空の美少女だったために肯定された。僕たちはどこにでもいるやる気のないおっさんだから否定される。ただそれだけ。

 初音ミクが死体になることは何度もフィクションの上でも起こる。けれど現実に死体になることはない。俺も何度も死体になりたいと想像するが、それは自分のなかだけでのことだし、自分にとってという意味では僕は自分の死を観察することはできない。そう言った要素が、死の異質性がそれを美化することを引き起こすし、それは手っ取り早いすべての苦しみの切断でもあるせいで、何度でも求められるが、意気地もないし実際切羽詰まっていないから、いつまでも僕は自殺も創作もしないのかもしれない。

 

気軽な創作練習または代替としてブログに挑戦している気がするけれど、何も成功せず練習にもなっていないだろう。何しろつまらなくて仕方がないし、意味が読み取りづらいから。