巣/人生の意味/植毛

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手紙魔まみ95・96

それ以上何かになること禁じられてる、縫いぐるみショーとは違う

 

 演劇、ショーは台本の通り演じることが求められるが、それとは「何か」が『違う』と述べている。おそらくその「何か」は人生それ自体のことである。人生はみな舞台という偉人の言葉もある通り、演劇は古くから人生を例えたものであった。『縫いぐるみショー』はいかにも対象年齢が低いが、それだけに古典的な演劇の類型からの逸脱が少ないともいえる。分かりやすく悪役が善玉に撃退される様子を見せる脚本の通りの演劇が、子供のために行われる。

 そのような白々しく、単純な構造を「人生」はしていないのだということを述べている。『何かになる』ということについて、実際の人生では色々と厳しさが生じる。何になるのか、その価値基準がどう定められるか、ラストがどうなるか、何もわからない。子供っぽい口語が消えていることがこういったことの真剣味につながっているのだろうか。「演」がテーマだなあと思ったけど、『何かになる』『ショー』という直接性のない言い方になっている。

「演」

 

 

甘い甘いデニッシュパンを死ぬ朝も丘にのぼってたべるのでしょう

 

 死ぬ日にも、日課通りに活動するのだろうということを推定している。死については遠くにあるが、それでも避けようがない恐怖として頭の片隅にある、という捉え方をしている人が多い気がするが、ここでの価値観もおおよそそのようなものである。圧倒的な現実である死に対して、逆らう気は毛頭ないため、悲壮感はそれほど感じられない。『甘い甘い』『も』などの繰り返しの表現が、日課という繰り返しの動作を思い起こさせ、死がただその延長線上に存在するものとして捉えられようとしている。恐ろしいなどという価値判断をはさまずに、ただ結果であるという風に捉えようとしているように見えるのだ。

 『甘い甘いデニッシュパン』『丘』、『のぼってたべるのでしょう』の平仮名表記などからは、絵本の一ページのように、穏やかで優しい印象を与えられる。『死ぬ』という一単語だけが恐怖的な内容であることで、『死』は異質であって、遠い場所に隔離されているかのような錯覚になるかもしれない。

「日課」