巣/人生の意味/植毛

短歌について/その他サブカル色々/男、無職、誕生年1994/うたのわで利己翔/ツイッター https://twitter.com/kakeruuriko?lang=ja

手紙魔まみ感想41・42

いもうとをやめてあなたのともだちになるわって頬はさんでくれる

 

 『いもうと』という立場は偶然の産まれのままに自然と属性としてつけられるもので、そういった意味で自分たちの意思によって結ばれる関係の『ともだち』より下位にあるように思われる。『ともだち』についてどのように考えるかという気持ちがこの歌の感想にはかかっている。

 『ともだちになるわ』の『ゆゆ』の言い方、『頬はさんでくれる』という『まみ』が好意的に受容している様子がある。親、自分以外によって決定された『いもうと』ではない、自分たちの意思で互いを尊重しあおうという『ともだち』の関係になろうという点を見れば、感動的ないい話である。

 実際に『ともだち』がどのような関係なのかといった点を冷静に考証すると、学校でできる『ともだち』はクラスが同じだったなどの偶然性によって構築されるし(そもそも、すべての人間の出会いが偶然といえる)、相互が強く結びついているかなどは曖昧にされていることが多いように思われる。また、そういった関係を批判する歌が二句前の『ホームルーム! シマウマ』の物であり『まみ』がそういった曖昧の関係に嫌悪を抱いていることは明らかである。でありながら『ともだち』と曖昧。これは『ゆゆ』側の会話文ということが大きな理由かもしれないが、「友達」のように漢字ではない、「親友」「仲間」といったはっきりと強固なものではない、ということは気になる。漢字では「達」にある集団としての意味合いが強調されることが違和感になりそうである。辞められるはずのない『いもうと』をやめることが述べられているのも無視できない。「妹で、かつ友達」ではなぜいけないのか。

 そもそも、作中主体にはともだちが極端に少なく、親密に話せる相手がいないのではないか。そして、妹に対しては「妹だから一緒にいてくれる」という現状を作中主体が気にかけているのである。そこについて妹が『いもうとをやめてともだちになるわ』と答えている。『頬はさんでくれる』は直接の体を使ったスキンシップで、親密さが表れている。

 『ともだち』は一旦破綻しても再構築などができるが、取り消せるはずのない『いもうと』を取り消して、『ともだち』の関係が続けられなくなったらどうするのか不安になるが、個人的に勝手に杞憂しているだけかもしれない。

「関係性」「直接」

 

 

 

ママレモンで兎の檻を洗ってる、ふわあふ、ふわあふ、あくびになるわ

 

 『兎』が出てきている。この連作に切り替わっては始めてである。

まず、この『手紙魔まみ夏の引っ越し(ウサギ連れ)』の全体を通して、『ウサギ』は『まみ』のペットであり、率直に自己愛を認められていない『まみ』が投影の手段としてペットである『ウサギ』を通じて自己を愛そうという目論見から必要としたものだと考えている。『まみ』の実際としては『兎』を飼っていないのではということも推定している。この二点ははっきりとした根拠から導き出したものではない気がするが、ともかくこれで今までのところうまくいっているので『ウサギ』『兎』が出てくる歌は今後もこの前提設定妄想を前提に書いていく。

 

 ママレモンはライオン株式会社の食器用洗剤。

 『ふわあふ』という独特のオノマトペが目を引く。「ふわふわ」にゆったりとした感じを出したものだと思われる。『あくび』のゆったりしたイメージ、また欠伸に付加されるだろう擬音としても『ふわあふ』は取れる。前者の『ふわあふ』は檻洗い、後者は欠伸によるものなのかもしれない。

 兎の檻の掃除、とすれば現実的だが洗うというと何か違和感がある。冒頭から『ママレモンで』と洗剤を強調しているが、流しで洗うものではない、ペットの檻の手入れに洗剤は使用すべきではないといった点から、非現実的だと想定させられる。泡を強調する『ふわあふ』や口語、『あくび』から幻想的にぼやかされるように印象されることが、『洗ってる』の進行形と対比されられるが、作中主体自体も取り込むような幻想の中にあるのではと読み取る。

「幻想」「洗い」「ゆったり」