巣/人生の意味/植毛

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手紙魔まみ感想27・28

歯医者(デンティスト)にゆく朝などを、永遠に訪れない物の例として

 

 前の短歌と強く関連する2つの要素がある。『永遠に訪れない物の例として』は4つ目の短歌の『永遠的なものの例として』に形が似ており、『歯医者』は9つ目に『はいしゃにいっていませんね』という内容のものがあった。

 作中主体の情報は特にないため、この連作で普遍的な『まみ』を作中主体にしたもの、と考える。『歯医者』にいくことは彼女にとって『永遠に訪れない』ように感じられるらしい。『はいしゃ』から『歯医者(デンティスト)』という言いかえで、より深刻に物事をとらえようとしている。歯磨きを真面目にする人間である、という主張だろうか。『永遠的』『永遠に訪れない』では永遠に対して肯定、否定という点が真逆で前者の方が口語に近い(的のあいまいな使い方)。

 「自分は真面目に歯を磨く人間で歯医者にかかることは絶対になく、歯医者にかかるような人間は不真面目な奴だ」ということを、極めて真面目に主張する、これがこの短歌の主題ではないかと思う。『例』は仮定・フィクションの意味ではないが、具体性をもって何かを語る際の語で、真面目な場で使う言葉である。そして、他の短歌のようなユニークで突拍子のない比喩ではなく、地に足の着いた言葉で日常を送る態度について語ろうとするため。四句五句の音と意味の切れ目の不一致がユーモア部分?

 『朝』は『永遠』に関連して特定の時間を設定で、3の短歌でも『いつか』と永遠に対応するものを提示しようとしていた。

「真面目」「生活」「説明」

 

 

 

 

花束の茎がアスパラにそっくりでちょっとショックな、まみより

 

 

 『花束』でも茎側から見ると『アスパラ』と見分けがつかないことに『ちょっとショック』としている。あるきれいな物が別の面から見るとそうでもなかった、というのは冷めさせる要因としてよくあり、いちいち大げさにするほどでもないため『ちょっとショック』と大したことなく、しかし打撃を受けたのだ、と述べる。形容詞などで『花束』が美しすぎたとか『アスパラ』が醜かったなどとは語らず、ただ全く違うもののように見えた、ということを示している。

 フィクションがこのような衝撃によって台無しにされることも多い。手軽に生まれ、伝えられるフィクションが与えた感動、衝撃はただのフィクションであり、こぎれいな作り話であることを説かれた途端に勢いを失うことはままある。短歌のように気軽に創作できたり、受容されたりしうるものほどこの特徴は典型的に作用し、需要の気軽さがそのまま忘れることへの気軽さへとつながる。

 そして、そのような事態が引き起こすこと自体がいくら深刻なことであったとしても、その頻発性ゆえに大したことのない事態だと解釈され、『ちょっとショック』程度にしか感じることを許されない。句点と『まみより』という字余りは痛みゆえのものではあるが、その直前の定型で歯切れ良い四句目までが空白による表現効果を高める。『そっくり』『ちょっと』

『ショック』は「O」と促音が歯切れ良い。

 『アスパラ』は『ウサギ』に食わせてはいけない野菜でもある。

 

 

 月曜日からは『手紙魔まみ、天国の天気図』