手紙魔まみ夏の引っ越し(ウサギ連れ)感想3・4
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死
ひたすら『恋人の』を繰り返した後『死』という単純な形をしている。音を重視して読むと「コイビト」「コイ」「ヒト」の三つから構成された短歌としても取れるが、意味のない文字の羅列になる、四句目五句目間の「の」が曖昧になるという点で問題がある。全てを『恋人』として考えた方が自然に考えられると思う。
恋人は現代日本の一般的な了解としては一対のカップルへ3人目が混ざるといったことは許されず、不倫という罪になる。『恋人の恋人の~』と連鎖させ続けられるということは主体以外は全員不倫を行いあっているということになる。最後の人物の死によってこの関係が露見した、という話になっているのだろうか。
素晴らしいはずの恋人という言葉を繰り返すことでその価値を落とし、『の』による接続によって大勢の罪人を作り出す。最後に『死』という暗イメージを置くことで、方向性を完全に暗い方面に確定させている。
「繰り返し」「暗」
いつかみたうなぎ屋の甕のたれなどを、永遠的なものの例として
甕はかめである。いれもの。
『永遠的なもの』という壮大なテーマを掲げているが、『いつかみたうなぎ屋の甕のたれ』という俗っぽいものを具体例として取り上げている。確かに、秘伝のたれといったものは足しつつ使っていくことで、調味料としてはかなり広い時間使うことが出来る。ここからの連想で永遠に近いものとしてとらえることも不可能ではない。
しかし、あえてそれを選ぶ理由はこの主体が『いつかみた』というものである。過去のあいまいな時点でこれを見たようだが、いい加減な書き方で疑わしい気持ちになる。本当に永く使われているのかも怪しいし、焼き鳥屋や漬物屋だったかもしれない。今はもうつぶれているかもしれないし、将来つぶれるかもしれない。
あえていい加減なものを選んでいるのは、気合入れて選ぼうが永遠のものは見つからないから、という諦めの裏返しかもしれない。地球や宇宙でも超越的時間に比較するとやがて失われる存在だからである。『として』を「とす」にすれば簡単に収まるところをあえて余らせた所を見ると、五句目の字余りの間抜けさもそういった諦めの表れだろう。
「俗」「永遠」「あきらめ」