巣/人生の意味/植毛

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魚のキスと「接吻」を意味する「Kiss」は関係ない。

昔々の、ほとんどの人間が自給自足して暮らしていた、とある島での話だ。そこでキスといえばもちろん、魚の鱚を指す言葉だった。鱚は海岸沿いにたくさんいる魚で、釣り場が分かっていれば、簡単な船を用いて、一年中釣ることができる、最も身近な魚であった。この島に住む一人の若い男、権之助はこの所毎日鱚釣りに出かけていたのであった。

 夏には、この島の青年は皆そうだ。この島の風習のためである。その内容は、この島の有力者の娘は、夏の産卵期に立派な鱚を送った男を婿とするというものだ。裕福なところの娘はこの島では決して外に出ず、家の中でずっと家事なり何なりを身に着けていて、決して外のものは顔も何も知らなかったが、いいところの女の顔はきれいだという認識があった。それに、女がどうだろうと婿養子になれるのだからということで、顔の知らない女と結婚することに恐怖や疑問を持つものはこの制度の担い手側よりずっと少なかったので、大した問題にはならなかった。今年鱚を受け付けているのは村長の次女である。他に権之助の同世代には裕福な家の娘はいないので、こいつが最初で最後の機会なのだ。権之助がこれにすがろうとしているのは唯一の家族の母親のためである。彼の母親は具合が悪くなってほとんど寝っぱなしで、いつぽっくり逝くかとも知れなかった。母親を死ぬ前の一瞬だけでも、どうにか喜ばせてやろうという思いで彼はこのキス釣りに臨んでいた。

 それで毎日鱚釣りに出かけていたが、釣れども釣れども雑魚ばかりであった。最低でも1尺はないと見込みは全くないといえた。日の経つごとに、どこそこのあいつが1尺1寸を釣っただとか、そこここのそいつが1尺3寸だといううわさが流れ始め、権之助は焦り始めた。それでもまったく成果の出ないままに、嵐の日が来た。風が吹き、雨が打ち、海が荒れた。

 この「嵐の日」はこの島の鮎釣りにとって重要な意味があった。大雨の中で漁業のできないのは当然であるが、それだけではない。年の第一号の大嵐の日を境にして、その贈り鱚釣り場での鱚は全く釣れなくなってしまうのである。風と雨の中にはさすがに権之助も釣りへは行かなかったが、何とか釣りができそうになると、家を飛び出していったのだ。焦燥感に支配されるあまり、嵐の夜に海岸に出てはいけないという掟のことはすっかり忘れていた。もちろん、寝ている母親は彼が出ていくことに気が付かなかったし、ほかには誰もいなかった。

 嵐は過ぎ去り、月が出ていた。海は荒れていて、流木などが散らかしたように流れていたが、とにかく餌を付けた針を投げ込んだ。藁にもすがる思いだったのである。そうして、少しでも荒れがましにならないかとか、とにかくでかい鱚がかかってくれとか思いながら海を睨めつけていた。目を閉じてうっかり眠ってしまうわけにはいかないと思い、目を凝らしていたのだが、暗闇に目が慣れると、流木の一つが、木の破片にしては変だということに気が付いた。見れば見るほど、それが「何か」ではなく「誰か」ではないかと推定されていった。ぐっしょりした着物はただ流れるうちに引っかかったものではなく、着られているもので、長くてゆらゆらしている紐状のものは、海藻ではなく長髪であるとことに疑いようがなくなると、とうとう権之助は腹をくくるしかなかった。死体でも、海に流すよりは回収すべきであり、命綱が備え付けてあるために比較的作業は安全に行えるのだから、これを見ないふりはできないのだと結論した。死体を見て嵐の夜の海が禁じられていたことも思い出したが、適当な場所へ死体を動かせばごまかしは効くだろうとした。

彼は衣服を脱いで命綱を巻き、海へと飛び込んだ。島の男で海の男という自負があり、泳ぎには自信があるゆえの行為だったのだが、彼は海を侮っていた。ぐんぐん「誰か」は沖から遠くなっていき、それを追うことに苦労するあまり、命綱がほどけていたことに気が付かなかった。権之助が気が付いたのは「誰か」に追いついてからだった。振り返ると、岸ははるか遠くだった。担いで泳ぐのは無理であると悟った。それどころか、一人でも帰れないのではと恐れた。とんでもないことをしでかしてしまった。

「おい!! てめぇ!」

 「誰か」を揺さぶるようにしながら怒鳴った。一発ぶん殴ってからほっぽり出して帰ろうという考えであったが、一応死んでいないかを確かめようと思ったのである。もし生きているならば、泳いで帰る気を起こすかもしれなかったし、生き死にの境界にいるものを殴ってはあと味が悪いと思ったのだ。

 権之助にとって意外なことに、「誰か」は呼びかけに応じるように気が付いた。そして、拍子抜けなことにそいつは眠りから覚めたかのように目を覚ました。海で支えなしに浮かんでいることを、全く気にも留めない様子で辺りをキョロキョロと見回した。その様子にあっけにとられ、権之助はバランスを崩してしまった。水に沈みかけて、口の中に海水が入り、むせた。すると、「誰か」は権之助の首をつかんで、ものすごい速さで島のほうへ泳ぎだした。行きも夢中だったから速さの感覚はなかったのだが、自分よりはずっと速く泳いでいるな、ということを感じた。しかし、それよりも重大なのはかなり強引な体勢だったことだ。口に入る水を吐く間もなく、新たに水が入りこみ、次第に気が遠くなっていった。それでも、気を失う前に二人は岸へ上がった。

 げほげほと権之助は膝をつき、苦しそうに咳き込んで肺へ入った水を吐こうとしていた。一方、少し前まで溺死体と見紛うような状態だった方は、彼に背を向けてのびのびと体操をしていた。その様子を見せられて権之助は苛立たしくなり、また怒鳴ろうとしたが、うまく大声は出なかった。

「ふざっ、おい、おま……」

それには全く迫力はなかったけれど、「誰か」は権之助の様子がおかしいことに気が付かせるのには十分だった。振り向いて、権之助に近づき、顔を覗き込んだ。そのとき、権之助と「誰か」はじっくりと見つめ合った。海藻みたいに長くてもつれた髪から権之助はそいつを女だと思いこんでいたのだが、顔は男とも女とも言い切れないような妖しさがあった。若くて整っていることは確かだったが、この島では見かけないくっきりとした輪郭のある目鼻立ちだ。また、肌の色も白すぎるし、着物も濡れていることを感じさせない、奇妙な材質をしていて、どこから皮膚か着物見分けが一見して付かない。胸元から性別は読み取れなかった。

 

このように権之助が考えていた時に「誰か」側は、そもそも自分が何を先ほどまでしていたか、なぜこれほどまでに彼が苦しんでいるのか、なぜ彼は自分を追いかけてきたのか、といったことを考えていた。そして、彼の位置する軸と種族、その知識についての分類に成功し、彼の苦しみは、鰓をもたないことが原因であるらしいということに気が付いた。そうして、自分のすべきことについての考えをまとめた。

 

「誰か」は権之助に近より、真正面にかがみこんだ。そうして彼の顎をつかみ、顔を前に向けさせた。権之助が突然のことに驚いているうちに「誰か」は一気に喋りだした。それは権之助には全く聞き取れず、聞いたことがない音であり、また彼は面食らった。

「誰か」は通じないことを予測していたようで、戸惑っていることを察してすぐにしゃべることをやめた。代わりに権之助の口を指で開け、そこへ自身の唇を押し付けた。権之助が戸惑っている間に、口の中にぬめぬめしたものが入ってきた。舌のようだが、ずっと長く、喉より奥にまで入り込んでいった。自分では意識もしないような体の内側へ突っ込まれたこと事態への困惑はあったが、感触自体はどちらかというと冷やりとして心地よい感じであった。唇もとても冷たく、妙な硬さがあった。視界は当然、「誰か」の顔面で埋め尽くされた。やはり白いし、異様にヌメリ気のある肌だ。目を閉じて、舌の操作に集中しているようだった。眉は生えていないが、髪は近くで見るとますます海藻のようだった。そうしているうちに視線に気が付いたのか、「誰か」は右目をゆっくりと開いた。やや薄みがかった色の目玉に覗き込まれると、恥ずかしくなってきたので、今度は権之助側が目を固く閉じた。と、舌が抜かれ始めていった。飲み込んだ水が取り除かれたようで、息苦しさがなくなっていた。顔が離れた気配を感じると、権之助は眼を開いた。

 すると、「誰か」は権之助の手にモノを押し付けて手渡した。手のひらに収まるような小さい棒……と権之助が思っているうちに、「誰か」はニッとして、突然背を向けて走り出し、海へ飛び込んだ。権之助が慌てて追いかけると、姿はすっかりなかった。潜りこんだらしい。空は薄明るくなり始めていた。貰い物を確認すると、釣り針のように見えたが、その割には大きめで、実用品ではないようだった。そういえば、釣りに来ていたのだったということを思い出した。釣り場へ戻ると、服はどこかに飛んでいったようだった。釣り具を片づけ、服を変えてからまた、釣り場へと出かけ直した。

 人はあまりいなかった。嵐が過ぎた後にはもう無駄だということを知っているのだ。権之助もあきらめ気味であったが、海に投げ込んですぐ、アタリが来た。釣りあげると、大きな鱚であった。それで、彼はあっさりと婚約者になった。

 その後、大体のことはうまくいった。嫁は期待通りにいい女だった。畑の収穫も、海の量もずっと他よりよく取れた。母親にいい思いをさせてから往生させてやれた。子供もやたらに優秀だった。いやな奴は次々に倒れていった。なんとなく、あの針のおかげなのだろうと思っていた。母親が死んだ後から、何をしてもうまくいくと思うと、張合いがない、ということをよく思うようになった。

 そして、あれから20年が経った。権之助の娘の婿が決まる年だ。嵐の夜に、彼は海岸を歩いていた。今の彼には、この程度の掟は障害ではなかった。……いや、実はあの年から嵐の日はここに来るのが癖になっていた。海を眺めて、「誰か」が流れていないか、いつも探していた。今日も座り込み、海に目をやっていた。

 丑三つ時、彼は目を見張り、興奮したように立ち上がった。服を脱ぐと海へ入り、泳ぎだした。命綱は使わなかった。全部うまくいくと確信していたからだった。

 

 彼が、二度とこの島の土を踏むことはなかった。

 

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